「わたしが一番きれいだったとき」を英訳したピート・シーガー夫妻

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Translation / 翻訳

 もうすぐ78回目の終戦記念日だが、詩人・茨木のり子さんの「わたしが一番きれいだった時」は戦争体験を題材に書かれたものだった。

別冊太陽『茨木のり子』より/21歳当時のお見合い写真と「わたしが一番きれいだったとき」
https://book.asahi.com/jinbun/article/12903858


「わたしが一番きれいだったとき/街々はがらがら崩れていって/とんでもないところから/青空なんかが見えたりした//わたしが一番きれいだったとき/まわりの人達が沢山死んだ/工場で 海で 名もない島で/わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった//わたしが一番きれいだったとき/だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった/男たちは挙手の礼しか知らなくて/きれいな眼差だけを残し皆発っていった//わたしが一番きれいだったとき/わたしの頭はからっぽで/わたしの心はかたくなで/手足ばかりが栗色に光った」。(後略)

戦争と平和の詩 | 10min.ボックス  現代文 | NHK for School
戦争と言う体験は、文学の世界でもさまざまな作品を生んだ。原民喜や茨木のり子の詩を中心に紹介し、時代や歴史の矛盾を見すえた文学者の眼差しを探る。


 この詩を英語に訳したのはアメリカのフォークソング歌手のピート・シーガーと夫人のトシ・シーガーさんだった。英語は直訳ではないが、次のようになっている。


When I was most beautiful,
Cities were falling
And from unexpected places
Blue sky was seen
When I was most beautiful
People around me were killed
And for paint and powder I lost the chance
When I was most beautiful
Nobody gave me kind gifts.
Men knew only to salute
And went away.
When I was most beautiful
My country lost the war
I paraded the main street
With my blouse sleeves rolled high (後略)
http://blog.livedoor.jp/yakusokunonatu/archives/4067557.html


 トシさんは日本人の父とアメリカ人の母を両親にドイツで生まれた。トシさんの祖父が日本でマルクスを翻訳したために、父親のタカシさんは亡命を余儀なくされたそうだ。ピート・シーガーとは1943年7月に結婚したが、トシさんに日本人の血が流れていることもあって、シーガーには日本人に対する特別な関心があった。

カリフォルニア州が謝罪した日系人強制収容所「マンザナー」と移民
息を呑むほど美しく映える白い山頂を臨む慰霊塔
https://globe.asahi.com/article/13249096


 二人が出会ったのは1939年、結婚したのは第二次世界大戦中の1943年のことだった。シーガーは23歳の時、1942年秋に、二等兵としてアメリカ在郷軍人会のカリフォルニア支部に派遣された。


 シーガーは、カリフォルニアの在郷軍人会に書簡を送り、書簡の中で在郷軍人会が日系人を強制収容に収容することや、日系人から市民権を奪うことに賛成した姿勢にショックを受け、怒ったと訴えた。アメリカの戦いはヒトラーのような狭量な自民族優先主義と闘っているのであり、日本人を強制収容するならば、なぜドイツ人、イタリア人、ルーマニア人、ハンガリー人、ブルガリア人たちに対しても同様な措置をとらないのかと訴えた。また、日本人から市民権を奪うならかつて同様に戦ったイギリス人からも市民権を奪わなければ道理が通らないとシーガーは主張した。彼は、アメリカが国力をつけたのは、抑圧された人々に避難の場所を提供したからではないかとも考えたが、彼の書簡は在郷軍人会からFBI、そして戦争省に送られた。


 日系人の強制収容についてはシーガーの主張がほぼ正しかったように、1988年に「市民の自由法」(日系米国人補償法)が成立し、レーガン大統領が公式謝罪した。バイデン大統領は、ルーズベルト大統領が強制収容に関する大統領令の署名を行った日から80年にあたる今年2月19日に、「アメリカの歴史の最も恥ずべき時代の一つ」という声明を行い、1988年の連邦政府の謝罪を確認した。

砂嵐が吹き荒れる42年7月のマンザナール日系人強制収容所=ロイター。不毛な地に建てられ、正式名称は「転住センター」とされた
https://globe.asahi.com/article/12630638


 シーガーは反核運動にもかかわったが、その背景には原爆を投下された国である日本や日本人に対する理解もあったに違いない。彼は、トルコの詩人ナーズム・ヒクメットが広島の原爆投下について書いた詩「死んだ女の子」を英語に訳して、「I come and stand at every door(私はどこの家の戸口にでも立ちます)」という歌にして彼自身やバンドのバーズなどが歌った。ピート・シーガー自身が2013年8月9日、長崎の原爆忌に「死んだ女の子」を歌う動画が下にある。
https://www.youtube.com/watch?v=C9qzZ0-qkac


 トシさんは映画プロデューサーとしてアメリカ黒人奴隷の歌などを蒐集し、その作品はアメリカの議会図書館に収められ、アメリカ文化史の貴重な資料となっている。アメリカの公民権運動、反戦運動をけん引した夫妻だった。 アイキャッチ画像はピート・シーガーとトシさん
https://fotokiddie.blogspot.com/2020/07/blog-post_12.html?m=1&fbclid=IwAR0ZjuFVmJz8V5ayBy9Y3AOqh1gLkYlnF7PyBdKsg0i9PZGhmR9cEpuhDJc

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