「大東亜共栄圏の3年8カ月」とイスラム

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Translation / 翻訳

 NHK「映像の世紀 バタフライエフェクト 大東亜共栄圏の3年8カ月」では日本が東南アジア、特にインドネシアとフィリピンで日本のアジア支配を正当化するために「大東亜共栄圏」という言葉をもち出して日本精神を強要し、皇民化政策を推し進めていく様子が紹介されていた。


 12世紀東ジャワの王様の予言には「北の方から黄色い人びとが攻めてきて白い人びとを追出してくれる。黄色い人びとは我が王国を支配するが、それは短い間でトウモロコシの花が咲く前に去っていく。」というものがあったが、日本のインドネシア支配はまさにその通りになった。


 日本軍はインドネシアの人心を掴む努力を払っていく。ジャワ派遣軍宣伝班長の町田啓二(1896~1990年)は、街中にインドネシアの抵抗の歌「インドネシア・ラヤ(偉大なるインドネシア)」を流していく。町田は「手に手に民族旗をひらめかせて天地も崩れるばかりの大歓声をあげながら熱狂し踊り回ったものだった。各民族独立のスローガンを掲げて南下した日本軍はこの瞬間においては確かに南アジアの救世軍であり盟主でもあった。」と回想している。

番組より
インドネシアの子どもたち
https://thetv.jp/program/0001016866/37/


 日本のインドネシア政策は、インドネシアの宗教イスラムにも配慮するものだった。イスラムの徳は、アジア太平洋戦争中にインドネシアに進駐した日本軍の間でも知られていた。今村均中将を司令官とするジャワ方面軍(第16軍)日本軍がジャワ島に進駐したのは、1942年(昭和17年)3月1日のことだった。


 ジャワ上陸の際に第16軍の全将兵には「皇兵あらたに皇民皇士つくる」というパンフレットが配布されて現地住民(ほとんどがイスラム教徒)に接する際の心得が記されていた。


 その心得の「風俗習慣」の項目には「1.寺院に入るな 階段にも土足は禁物、2.土民は犬や豚を嫌う 左手を使うことを忌む、3.土民の礼拝や祭りを尊重せよ、4.土民の胡坐(あぐら)を責めるな、5.マンデ(婦人の水浴び)を視るは男の恥、6.コーラン(聖典)用語を紊りに使うな」、また「感情生活」では「11.掠奪、放火、強姦に対する土民の復讐心は激しい 強姦は軍法会議で15年の懲役である」、さらに「礼儀作法」では「12.服装はいつもしゃんとせよ 裸体を見せると土民は軽蔑する、13.回教徒の前で酩酊すると ひどく侮辱される、14.ハジ(白い頭巾)をかぶった土民は格式のある回教徒である、15、敬老思想が盛んである 老人の頭には手を触れるな、16.名所旧蹟や文化施設を穢すな 荒らすな、(後略)」などと書かれてあった。(田澤拓也『ムスリム ニッポン』小学館より)


 この心得は、イスラムの教義の基本をよく把握し、イスラムの敬老の精神が説かれ、女子への暴力を厳に戒めていたが、戦前からインドネシアで暮らしていた日本人たちの忠告や知見を基にしていた。


 しかし、戦局が不利になっていくと、日本軍の傲慢不遜な姿勢は現地の人々から嫌われ、反発されていくことになる。軍紀も乱れていったであろう。町田啓二は「大東亜戦争はあらゆる方面で準備不足だった。にわか仕立てに国策を決定し急ごしらえに開戦した日本としては無理もなかった。いやしくも国運を賭して戦争に突入するのにインドネシア人の心情も知らないで彼らに対する宣伝方針を打ち立てたということは全くバカげたことだった。」と回想している。


 日本が敗れるとインドネシアにはオランダが再び進駐してきた。インドネシアはスカルノを中心にオランダに抵抗して独立を果たすことになるが、インドネシア独立戦争には旧日本軍兵士たちも2000人ほど加わった。「大東亜戦争というのは大東亜を解放するための戦争でそらならずして日本が負けた。でもインドネシアが独立しようとしている。だから日本ができなかったことを我々は小さな力だけれど彼らに示そうではないかと戦った」。

碑文(表)
市来龍夫君と吉住留五郎君へ
独立は一民族のものならず 全人類のものなり
一九五八年二月十五日 東京にて
スカルノ
青松寺
東京都港区
https://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/asia-in.htm


 そうした旧日本兵の中には市来龍夫と吉住留五郎がいる。彼らは1930年代においてはインドネシアで唯一の邦字新聞で、アジアとの連帯を唱えていた「東印日報」の記者としても活動していた。市来と吉住は日本の敗戦後もインドネシアに残り、インドネシア人とともにオランダとの独立戦争を戦い、市来は戦死し、吉住は戦場で病没した。東京港区の青松寺にはスカルノが二人に捧げた石碑が建てられている。


「市来龍夫君と吉住留五郎君へ
独立は一民族のものならず 全人類のものなり
1958年8月15日 東京にて スカルノ」


 フィリピンで日本の傀儡政権の大統領だったホセ・ラウレルは次のように番組の最後に「大東亜共栄圏」について述べているが、ロシアのウクライナ侵攻など戦争を抱える国際社会に教訓を与える言葉だ。


「日本の軍事占領下では大東亜共栄圏という大義に従わざるを得なかった。それを否定するのは賢明ではなく、無意味なことだった。基本的に共存と協調を意味する共栄圏という考えに反対する者はいないだろう。ただしはっきりと言うならば、その考えは地域に限定されたものではなく、普遍化されるべきもので、より地球規模の繁栄であるべきものなのだ。」

アイキャッチ画像は大東亜共栄圏の理想にむけて宣伝班を率いた #町田敬二 。彼のジレンマと戦後の模索が「オールナイトニッポン」の誕生に繋がりました。
https://twitter.com/nhk_butterfly/status/1650635731776176135

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