今年秋のドナルド・トランプ氏の大統領選挙当選の可能性も「ほぼトラ」などの言葉とともに、指摘されるようになった。彼の大統領在任時代、イスラム系諸国からの移民の禁止などが行われた。アメリカではアジア系の人びとに対する偏見や差別、暴力が繰り返されているが、中東など西アジアの人々も含めてアジア系の人びとに対する偏見は新しいものではない。19世紀後半から現われた黄禍論、1882年の中国人排斥法、第二次世界大戦中の日系人の強制収容所、トランプ政権のムスリム移民の禁止など枚挙にいとまがない。白人至上主義に対抗するには欧米世界の歴史的発展にいかに非欧米世界が貢献し、共生、共存してきたかを国際社会が十分に知って理解することも必要なことだろう。
世界帝国であったモンゴルの元朝時代には宋や金の時代とは違って貿易を政府が厳格に統制しようとする方針がなく、中国の中東やヨーロッパと大陸を越えた貿易は中国人以外の主にペルシャ人、アラブ人、シリア人たちが担うようになり、卓越した中国製品である絹はアジアの隊商ルート(通称:シルクロード)を通じて中東やヨーロッパに到達していた。また中国陶器は主にイスラム世界に輸出された。アジア諸国とヨーロッパとの貿易は主にヴェネツィアやジェノアといったイタリアの都市国家が交易相手だった。イタリア商人たちにとって外国貿易のハンドブックとでも言うべき『商業指南(Practica della mercatura)』は重要で、中国への交易ルートについても説明が行われていた。
元朝は首都である大都からロシア南部にまで版図は延びていたが、中国とヨーロッパの直接的交易はあまり見られなかった。元朝のヨーロッパ支配については、日本や朝鮮半島、ベトナム、ミャンマー、チャンパ王国ほど中国側には多くの記述がない。大都にはロシア人守備隊が存在したり、東満州にはロシア兵の植民地があったりしたものの、ヨーロッパとは直接的接触はほとんどなかった。
中国とヨーロッパ文明の橋渡し役をしていたのは、地理的にも両世界の間にあった中東イスラム世界であった。モンゴル帝国第5代皇帝のクビライの時代にはアラブ・ペルシャの天文学や天文を観測する機器が中国に移入された。アラビア天文学の技術を学んだ郭守敬(かく・しゅけい、1231~1316年)は、中国暦法の画期となる「授時暦」を作成し、日本の貞享暦にも影響を与えた。しかし、中東の医学や数学などは中国と相互に影響を及ぼすことはほとんどなかった。
ヴェネツィアは中世ヨーロッパ商業を支配する都市となったが、5世紀に創設され、9世紀にはすでに主要な海洋国家となった。先日も書いたように、1204年に十字軍を使ってビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占領すると、さらに発展を遂げていくことになる。コンスタンティノープル攻略で、クレタ島やエヴィア島を割譲され、領土的にも拡大し、ヨーロッパ商業の中心としての地位を不動にした。
ヴェネツィア商人たちはモンゴル帝国、ペルシャ、アルメニア、カフカス、小アジアとの交易拡大を目指し、シルクロードのネットワークを広げていった。1221年にヴェネツィアはチンギス・カンの統治時代にモンゴル帝国と貿易協定を締結した。ヴェネツィアでは、宝石、染料、スパイス、絹織物などの贅沢品から日常品までが取引され、エジプト、小アジア、中国など極東からの絹や綿、錦などの織物がヴェネツィア商人を通じてヨーロッパの内陸に輸出されていった。
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