21年8月15日、タリバンがアフガニスタンの首都カブールに入り、アフガニスタン全土をほぼ制圧した。ガニ大統領や副大統領、その側近たちがUAEに逃亡し米国が中心となって成立させた体制はもろくも崩壊した。タリバンの本格的攻勢が伝えられてからわずか2週間、ガニ大統領が強力な抵抗を誓った翌日のことだった。
アフガニスタンの混乱は、難民の流出、麻薬の拡散、テロの拠点化などの問題を孕んでいる。アフガニスタンを拠点とする過激派組織「ISホラサーン州(ISKP)」にはウズベキスタンやタジキスタンなど中央アジア出身者が多く、中央アジア諸国やロシアにとって、タリバンがISKPの活動を封じられるかは重大な関心事になっている。
中村哲医師が常々主張したように、アフガン人は生活手段がなければ戦うしかないが、アフガニスタンでは1930年代に農業支援をした日本人がいた。日本人農業技師の尾崎三雄氏は、1935年に農林省によってアフガニスタンに派遣されて、植林、灌漑、果樹栽培の指導を行い、柑橘類の栽培の指導も行った。その様子は、『日本人が見た‘30年代のアフガン』(図書出版 石風社、2003年)に詳しい。
尾崎氏は、アフガニスタンの比較的標高の低いジャララバード州で柑橘類栽培が最も見込みがあると考え、日本からミカンの種子を送らせたり、現地の人々と共に柑橘類の栽培に取り組んだりしている。 尾崎氏のアフガニスタンで蒐集した新聞の切り抜きなどの資料、文献、写真などは2001年の対タリバン戦争以降に遺族が公開して資料的価値も高いとされ、一橋大学の加藤博教授によって尾崎氏の業績を紹介するホームページも2007年に起ち上げられた。 http://www2.econ.hit-u.ac.jp/~areastd/ozaki/

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1935年8月24日付の「読売新聞」には「世界の尾根アフガニスタンへ 伸ばす技術の手」という記事で尾崎氏の派遣が紹介されている。記事タイトルからも戦前、アフガニスタンが日本にとっていかに遠い存在であったかをうかがい知ることができるが、現在の国際社会がアフガニスタンについて求められているのは、尾崎氏や中村哲医師のように、アフガニスタンの人々が自立した生活を送れるような支援を行うことで、爆弾を落とすことではないだろう。
アイキャッチ画像はアマゾンより

バーミヤン
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バーミヤンで
1971年
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