フランスのマクロン大統領は、フランスの世俗的価値観に合わせたイスラムの改革を唱えている。そのあたかもイスラムを「文明化」しようとする姿勢がイスラム世界の側から見ればかつての植民地主義の傲慢ぶりのように映り、強い反発を招いている。マクロン大統領にとってイスラムに厳格な姿勢をとることはル・ペン氏に対抗する上でも必要なことであり、彼は、イスラムは危機にある宗教と形容したり、預言者ムハンマドを描く風刺画を擁護する姿勢を見せたりしている。
しかし、1789年7月にフランス革命が成立し、1792年9月21日に共和政に移行したフランスを最初に承認したのは、北アフリカ・イスラムの都市国家アルジェだった。当時アルジェリアはオスマン帝国の支配下にあったが、デイ(太守)の下で実質的な自治を維持していた。フランスは1793年1月にルイ16世を処刑すると、イギリスなどヨーロッパの諸王国から反発され、ヨーロッパ諸国と緊張状態にあったが、アルジェではデイの権力は絶対的なものではなく、またアルジェにとってフランスとの航路による交通や通商は不可欠なもので、フランスもまた外交的孤立を回避するために、アルジェなど北アフリカのイスラム世界には開放的な姿勢を見せ、これがフランスとアルジェの接近をもたらすことになった。
フランス共和国が成立した1792年の時期、ヨーロッパ勢力はアルジェのことを「共和国」「摂政政治」などと形容していた。既述の通りアルジェはオスマン帝国の「デイ(摂政)」が統治する形態となっていたが、「ディヴァン」と呼ばれる陸海軍の指揮官たち、船舶運航の責任者、財政長官、徴税官などからなる統治機構によって支えられ、オスマン帝国のスルタンの権力から独立した政治権力を保っているとヨーロッパ諸国からは見られていた。
1790年代前半、フランスにとってはヨーロッパ全体が敵で、友好国はアルジェのみという状態だった。国内では南西部ボルドーや北西部カーン、南部のマルセイユ、ニーム、南東部のリヨンなどでは反革命の動きがあった。アルジェ政府はフランスの共和制を精神的だけでなく、物質的にも支え、フランスとの通商を奨励し、フランスの貿易商たちにアルジェから穀物を輸入する資金の貸し付けも行った。この貸し付けがなければ、フランス社会は飢餓で疲弊し、革命政権も潰えただろうと見られている。
フランス共和国の標語「自由、平等、博愛」の特に平等はイスラムの中心を成す概念であり、アルジェの為政者や住民たちにも容易に理解でき、またアルジェなど北アフリカではイスラム神秘主義の伝統から同胞意識が強く、博愛の心情も伝統的にあった。自由については、神への服従がイスラムでは行動の大前提となり、ヨーロッパ的自由とは性質的に異なるが、後にパリに滞在したエジプト人思想家タフターウィー(1801~73年)は西欧的自由の概念はイスラムの「正義(アドル)」や「公平(インサーフ)」だという解釈を行っている。
フランスが革命後の社会・経済的混乱を立て直すためにアルジェに負った債務は1820年まで700万フランにまで膨れ上がったが、フランスは返済することがないまま1830年にアルジェリアへの植民地支配を開始した。
アイキャッチ画像は
マリー・アントワネット/花總まり (写真提供/東宝演劇部)
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