アフガニスタンを愛した日本人 -「風の学校」の創設者

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Translation / 翻訳

 「風の学校」を設立した中田正一氏(1906~1991年)が国際協力の道を歩み始めたのは、農林省を60歳で定年退職してからのことだった。


 中国大陸で4年半、工兵として軍務に従事したが、その間に精神の奥深くまで刻み込まれた体験はとうてい忘れられるものではなく、残った人生を平和活動にと願い、国際協力やボランティア活動の道を選ぶことが「贖罪」だったと語っている。


 1963年6月から65年1月まで農林省を休職してユネスコの農業教育の専門家としてアフガニスタンの文部省に協力した。アフガニスタンはシルクロードの十字路で、中国とヨーロッパ、インドとヨーロッパの2つの交易路が交差するところで、東西南の文化が集中する豊かなところであることをあらためて知ることになる。文化的に満ち溢れ、また民族の多様性にも触れることができる素晴らしい国だと思った。


 退職後、ボランティアとして、バングラデシュやソマリアなどアフリカを回ることになるのだが、アフガニスタンのことが忘れがたく、日本国際ボランティアセンター(JVC)のボランティアとして1991年に再びアフガニスタンに入ることになる。

中田氏の著書より


 1979年12月にソ連軍がアフガニスタンに侵入したことを知り、大国が正当な理由もなくアフガニスタンを軍事的に蹂躙することに心底怒りを覚えたという。10年にわたるアフガニスタンでの戦いではおよそ100万人もの戦死者や行方不明者を出し、600万人の難民をパキスタンやイラン、さらにはヨーロッパ諸国などに流出させた。ソ連軍が1989年2月に撤退しても、飲用や灌漑設備の用水路も破壊されてなく、農耕のために生活することもできない。学校づくりや井戸掘り、農業指導などで手伝うことはできないかと考えるようになる。


 アフガニスタンに入る前に、パキスタンのペシャワールに滞在するが、そこでアフガン難民の医療支援を行うJAMS(日本―アフガン医療奉仕会)の中村哲医師などの世話になった。JAMSの活動方針はアフガニスタンの医療活動はあくまでアフガニスタン人自らの手でというものだった。中田氏の『国際協力の新しい風』(岩波新書、1990年)にはJAMSについて比較的詳しく紹介され、中村医師たちが選抜を行うJAMSで研修するアフガン人医師たちは思いやりの深い、礼儀正しい人たちだと書かれている。

中田氏の著書より


 中田氏はアフガニスタンなどの体験から人は他の生物との関わりなしに生きていくことはできないと考えるようになる。戦争などで他の生物との関わりが希薄になったり、考慮しなくなったりした結果、気候変動などの環境問題も起こるようになった。いずれ人間は他の生物との関わりを重視する「農的生活」に回帰していくだろうと中田氏は考え、現地の人々が農業で自立できる井戸掘りなどの仕事を支援していった。現地の人々が現地で調達できる材料による技術をと思い、上総掘りの竹ではなく、現地の木材で井戸を掘る技術協力を考案していった。アメリカがアフガニスタンに金や物を与えたのはチャリティーでその場限りで終わってしまうが、中田氏や中村医師の考えた支援は現地に長く生きる方途だったが、どちらが適切であるかは言うまでもない。

中田氏の著書より
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