スペインの多様な文化・宗教的伝統を愛した詩人ロルカ

日本語記事
スポンサーリンク
Translation / 翻訳

 今からちょうど100年前の1922年にスペインでは、神秘的な情緒や感動を伝える伝統歌謡であるカンテ・ホンド(「深い歌」という意味)の祭りがグラナダのアルハンブラ宮殿の大広場で催された。カンテ・ホンドはこの時代忘れられつつあったが、祭りはその再生と生き残りをかけたものだった。


 その推進役の一人だったのは、詩人のフェデリコ・ガルシーア・ロルカ(1898~1936年)だった。ロルカはスペインの過去のイスラムやユダヤなど多様な文化・宗教的伝統を深く愛好していた。そうしたロルカの情感は「分断の時代」と呼ばれる現在に少なからぬ教訓を残している。


 ロルカは11歳の時から最後のイスラム王朝ナスル朝の首都であったグラナダに移住し、グラナダ大学に入学し、コルドバやセビリアなどをめぐってスペインのイスラム・ユダヤ的文化・伝統にも触れることになった。また、1921年にジプシーの友人からフラメンコ・ギターの技術を学んでフラメンコに魅せられて、フラメンコ歌謡とも言うべきカンテ・ホンドが再び盛んになることを目指し、村々をめぐって祭りのコンテストに参加する歌手を集めた。カンテ・ホンド祭りは大成功に終わったが、その時の感動をロルカは『ジプシー歌集』として著した。


 フラメンコ音楽のルーツには様々な説があるが、時代的にはスペインが「アル・アンダルス」と呼ばれた中世時代に生まれ、それはムスリム、クリスチャン、ユダヤ人、ジプシーが文化的にも相互に影響し合った時期だった。カナダのイスラム学者トーマス・アーヴィング(1914~2002年)は、その著書『イスラム世界(The World of Islam)』の中でジプシーの音楽とカンテ・ホンドは、アラブの抒情詩にルーツがあると書いている。

フラメンコ
https://hkdancemagazine.com/stories/whats-in-a-flamenco-dancers-bag?fbclid=IwAR2tD561_DBFsB25OvfJBB_cuz7geCNc8CtiPRj-VIqCfBgvWTgSi8U_h2I


 1931年にロルカはインタビューの中で、グラナダで育ったことが迫害された人々に対する同情や理解を自分にもたらしたと語った。ジプシー、黒人、ユダヤ、ムーア(イベリア半島や北アフリカのムスリム)、これらの抑圧された人々は自分自身の中にいるとロルカは述べている。ロルカはペルシア詩人オマル・ハイヤームやハーフェズにも強い影響を受け、19歳の時の最初の出版物は『オマル・ハイヤーム批評』であり、「アブドゥッラー(アラビア語の原義では〔神の子〕)というペンネームを使っている。


 ロルカがフラメンコを愛好したのは、フラメンコが、スペインの「抑圧された人々」の文化や歴史の融合の上に成立したという背景があるのだろう。スペインでは1930年代にアンダルス(アンダルシア)の時代の文化を見直そうという復興運動が起こったが、イスラムやユダヤの過去の排除を訴え、スペイン・ナショナリズムに強烈に訴えるフランコ独裁体制の下ではそうした動きは絶えることになった。


 フラメンコの楽曲「ソロンゴ」は、ロルカが収集して編纂したものだが、ロルカ自身も新たに詩を創作して加えている。


わたしの瞳は蒼い色
わたしの瞳は蒼い色
そしてこの心は
小さな蒼い炎と同じ色
夜、わたしは野へと出て
涙が枯れるまで泣くの
こんなにあなたが好きなのに
あなたはまるで好いてはくれない

日本語記事
miyataosamuをフォローする
Follow by E-mail / ブログをメールでフォロー

If you want to follow this blog, enter your e-mail address and click the Follow button.
メールアドレスを入力してフォローすることで、新着記事のお知らせを受取れるようになります。

スポンサーリンク
宮田律の中東イスラム世界と日本、国際社会

コメント

宮田律の中東イスラム世界と日本、国際社会をもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む

モバイルバージョンを終了
タイトルとURLをコピーしました