「戦時中、李香蘭という名の私は、映画『黄河』の撮影で向かった最前線の日本軍兵士を慰問しました。1本のロウソクの前に立ち、『海ゆかば』を兵士と共に歌いました。しかし翌日になると、その彼らが一つまた一つと死体になって戻って来るのです。中東戦争の取材は、心の傷をよみがえらせると同時に、悪夢を繰り返してはならないと思いを新たにする機会でした。にもかかわらず、今も紛争が続く状況をみると、むなしさ、そして人間の愚かさを感じます。」
これは女優、歌手、そして参議院議員であった山口淑子さんの言葉だ。園児に軍歌を歌わせる幼稚園があるという報道に接すると、山口さんが形容するような、歴史を忘れる、あるいは歪曲して理解する「人間の愚かさ」を感じてしまう。
山口さんは1973年夏にイスラエルのエル・アル航空のハイジャックに失敗してイギリスで身柄を拘束されていたパレスチナ人コマンドのライラ・カリドにインタビューした。ライラが「私たちはユダヤ人を憎んでいるわけではない。力ずくで私たちの国を奪おうとする行為に反対しているのです」語ると、ハイジャックは非道な行為であるとは思いつつ、ライラの「イスラエルに奪われた故郷の上を飛びたかった」という言葉が、山口さんには日本人が中国東北部に「満州国」を建国した過去にダブって響いたという。

山口さんは中国人歌手「李香蘭」としてデビューして、美貌と歌唱力で満州国と日本のスターとなったが、日本軍に協力したことで終戦後中国への反逆罪に問われたが、日本国籍であることが証明されて国外追放となった。
山口さんは、テレビ朝日の「徹子の部屋」の中で
「私ね、二つの国の狭間で翻弄されたけれど、戦争がいけないのよ。戦争はやってはいけないのよ。戦争は勝っても負けても悲惨です。戦争は嫌い!」。
と語っていた。
中東戦争の取材についても「私は、自分の心の傷をいやすために、わざわざ戦場に来ているのではない。その傷をもうこれ以上増やさないために、もう、あの中国大陸の戦場から逃げ出した時の傷を、新しく生まれた戦場の上に傷跡として残したくないために来ているのだ。」と中国での体験と重ね合わせて語った。(『誰も書かなかったアラブ』1974年)
『誰も書かなかったアラブ』の中には
「四次にわたる『中東戦争』の中で、『パレスチナをめぐる問題』が何か一つでも解決されたことがあっただろうか。
イスラエル軍は国連決議を無視して『占領』を続けるし、アラブ・ゲリラは、その報復と『奪還』をめざして一層過激な行動に出ている。
ときたまもたらされる大国間の申し合わせによる『中東和平』は、その戦いのたまさかの休みであり、真の『解決』にはいつも至らない。」
山口さんは、イスラエル・パレスチナ二国家共存、つまりパレスチナ人が国家をもつことを支援して日本パレスチナ友好議員連盟の設立に参加した。
アメリカのトランプ元大統領はイスラエルがパレスチナの全域を支配することを認めたが、これに対して民主党のバーニー・サンダース上院議員は、2017年2月に二国家共存を支持する圧力団体の「J Street」で講演を行い、「イスラエルがパレスチナの占領を継続し、パレスチナ人の政治的・市民的自由の権利を日々制限していることはアメリカの根本的価値観と相いれない。ヨルダン川西岸の入植地拡大は和平の可能性を奪い、苦難と暴力の要因となるもので、イスラエルの入植地拡大は国連安保理で2016年12月に非難決議が成立したように国際法にも違反する」と述べた。

現在の中東問題の本質は、私たち日本人の過去とも無縁ではないことを山口さんの人生やその言葉は教えている。
アイキャッチ画像は
銃殺刑をまぬかれた山口淑子波乱万丈の人生
https://books.bunshun.jp/articles/-/2445 より

下は、「オリーブの樹」126号に掲載された重信房子さんの獄中「日誌」からだが、俳優、ジャーナリスト、参議院議員であった山口淑子さんのイスラエルの占領で抑圧されてきたパレスチナの人々への共感に触れることができる。少々長いが引用しよう。
『(2014年)9月14日 夜のニュースで山口淑子さんが9月7日に心不全で亡くなられたことを知りました。思わず黙祷を捧げました。
山口さん最初に接したのは、71年3月突然のベイルートPFLP事務所への国際電話でした。「“3時のあなた”の山口淑子と申します。赤軍派が仲間を殺しました、ご存知ですか。山田孝さんが殺されました。あなたのご意見を聞かせて下さい。」たたみかけるような情報と質問。これが私が日本で「連合赤軍事件」が起きたことを知る第一報でした。
そしてその後インタビュー取材で何度か訪れる山口さんと73年に会いました。インタビューもしました。
また生い立ちを語ってくれ、45年日本敗戦後は死刑判決を中国で受けそうになったこと、日本人なのに中国人として生きてきた罪や苦しい矛盾、戦後日本人として生きていく中でも決して昔出会った中国の人々の寛大さを忘れないこと、自分を時代の加害者でありまた犠牲者と思えば思うほど、パレスチナのように虐げられた人々の何かに役立ちたいと思い続けていることなど、語っていました。「パレスチナ解放を助けてほしい、私は私たちの方法で、山口さんは山口さんの方法で!」そんな話を私もしました。
その後もずっとパレスチナ問題にかかわり、参議院議員として「パレスチナ友好議員連盟」を木村外相や宇都宮徳馬氏らと創り、「アラファト訪日」も実現して活躍しておられました。
その間も励まして下さったこと、そして私が帰国逮捕後は何度か東拘にも面会に来て下さり、物心両面でずっと支えて下さったこと、感謝ばかりです。私への面会などが大っぴらにならない方がいいのでは……と思っていた私に「あら、平気よ。こないだ日経新聞に連載した“私の履歴書”が本になったけど“はじめに”で私あなたとの面会のこと書いてますもん。本も差し入れましたよ。」とニコニコ笑っておられました。80才を過ぎても昔と変わらずあまりにも若く美しいのには、東拘(東京拘置所)の係員たちも驚いていました。
数奇で困難な死線も屈辱もそしてまた数々の栄光も受けとめて、しなやかで強い意志を育てた山口さんだから、私の様々の困難や喜びを分かろうとして下さったのだと思います。国境を越え異なる民族の人たちと家族のように共に闘い続けた私には、あなたの生涯はとりわけ共感し学ぶことが多くありました。本当の強さを持ったあなたの華のような生き方に敬意を表し心から哀悼を捧げます。いつも支え励まして下さったこと忘れません。ご冥福を祈ります。(中略)
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