終戦の月、8月になると、テレビなどでは戦争映画が特集される。戦争映画ではないが、「二十四の瞳」(1954年)を久しぶりに観た。
大石先生は岬の分教場で昭和3年4月から12人の生徒に教え始める。子供たちに「小石先生」と言われて迎えられる先生は小柄な女性だが、自転車に乗って颯爽としていて闊達な人だ。「おなごのくせに自転車に乗ってやがる」などと生徒たちからはからかわれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E3%81%AE%E7%9E%B3_%28%E6%98%A0%E7%94%BB%29?fbclid=IwAR0h7GHNNq9uJuKIYDtoNl3GGJ1L-mhT2gkJnYm4guWRNV8UlcEYQb6QSuU
石切りの風景、お遍路さんたち、乗り合いバス、帆掛け船、石垣のある瓦屋根の家がまぶしく見える。小学校唱歌「村の鍛冶屋」などよく歌を歌う。子供たちは恥ずかしがり屋で、自転車に乗せてやろうかと言うと逃げ出してしまう。女学校を出た大石先生は笑顔が魅力的な人だ。12人の生徒たちを愛おしく思う先生は、名簿に子供たちのあだ名も書き記す。先生は「大石、小石」などと呼ばれて慕われるようになる。
岬の大人たちが先生の洋服と自転車を敬遠して口もきいてくれないなどの苦労があるが、でも先生を慕う生徒たちに先生は励まされる。生徒たちの習字の字を一枚、一枚見ながら生徒たちの顔を思い出す先生は、二十四の瞳が可愛かったと回想する。先生は子供たちの瞳を濁してはいけないと思う。
子供たちのいたずらで足を大けがしてしまう先生。代用の男先生は歌のレパートリーも少なく子供たちは不満だ。見舞いのために生徒たちは歩いて遠い距離を歩いて先生に会いに行く。あまりに遠くて、お腹も空いて泣き出す子供たち。大石先生は感激して子供たちにきつねうどんをふるまう。

「二十四の瞳映画村」
https://www.mashikoku.com/2018/07/17/post-929/
子供たちが本校に進学する頃には日本は満州事変、上海事変、不況の波と日本の政治、社会の暗い変化が子供たちの生活を呑み込むことになる。幼い赤ん坊の面倒をみるために学校をやめてしまう生徒の松江は大阪に奉公に出る。日本の社会は貧しく、金毘羅参りの修学旅行も子供たちは貯金を下ろしたり、旅行に参加できない子供も現れたりする。また、「アカ」というレッテルを貼られて警察に呼ばれる教師も現れる。そういう理不尽な社会を大石先生は理解できずに反発する。
昭和初期の戦争に向かう時代は繰り返してはならないという原作者の壷井栄や監督の木下恵介の意図が伝わってくるような内容だ。観ていると、日本人が失ったものが少なからずあると思わずにいられない。人は貧しいほど心が豊かだとはアフガニスタンで活動していた中村哲医師も語っていたが、それを確認するような思いにもなる。他者への思いやり、優しさ、日本は心の豊かな社会だったと思わずにいられない。

暗い昭和の時代と現在には似通ったものがあると言い続けたのは歴史家の半藤一利氏だった。2005年の「マガジン9条」の中で、1、教育の国家統制(現在の教育基本法改正)2、情報の国家統制(現在ので通信傍受法、個人情報保護法)、3、言論弾圧の強化(現在の共謀罪、そして憲法改正への歩み)、4、テロの発動(半藤氏は現在の例として朝日新聞京都支社襲撃、加藤紘一宅焼打ち、小林陽太郎宅襲撃、日経新聞への火焔ビンなどを挙げていたが、それに安倍元首相の暗殺が加わった)5、政治家や論壇、そして民衆レベルのナショナリズム鼓吹を指摘していたが、まさに「二十四の瞳」の時代と現在が酷似していることを指摘していた。だからこそ、いま観る価値がある映画だとあらためて思う。「今日はじめて集団生活につながった十二人の一年生の瞳は、それぞれの個性にかがやいてことさら印象ぶかくうつったのである。この瞳を、どうしてにごしてよいものか!」(壷井栄原作より)、その想いは今の大人たちが共有しなければならないはずだ。

アイキャッチ画像は脚を怪我した先生を子供たちは見舞う
https://ameblo.jp/kak-dela/entry-11517211048.html

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