農業で繁栄した地中海の王朝 -世界に誇っていたチュニジア農業

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Translation / 翻訳

 2011年のチュニジアで起きた「アラブの春」はチュニジアの食品の価格の高騰を嘆く若者の自死によって始まり、それがアラブ諸国に広まっていった。


 チュニジアは、かつて豊かな農業を誇る国だったが、地球温暖化などの干ばつによる農地の減少、また人口増加などによって農作物の輸入国となっている。国際的穀物価格などの高騰は自死したようなチュニジアの若い青年層にとって大きな負担となった


ローマ帝国がチュニジアを拠点とするカルタゴとの戦争を考えたのは、チュニジアで採れるイチジクがあまりに甘いという名声を聞きつけ、帝国経済を維持するのに、チュニジアの農地が必要と考えたからだったとも言われている。


 日本ではあまり知られていないズィール朝は、イフリキーヤと呼ばれた現在のチュニジアから、リビア、アルジェリアを支配したベルベル人(北アフリカに広く住むベルベル諸語を母語とする人々で、イスラムの信仰をもつ)のイスラム王朝だった。(973~1148年)その一族はイベリア半島のスペインまでにも影響力を伸ばし、グラナダに小王朝を築いてもいる。歴史家のイブン・ハルドゥーンは、ズィール朝は彼が知る限りでは最も広大で、繁栄したベルベル人の王朝だと語っている。


 ズィール朝治下のチュニジア北部は小麦の生産が盛んで、他方スファックス(東部の港町)周辺はオリーブの産地として知られていた。またアルジェリアのビスクラはデーツの栽培が有名で、ズィール朝の領内ではサトウキビ、サフラン、綿、モロコシ、ヒエ、ヒヨコマメなどを生産していた。馬、羊などの畜産業、また漁業も積極的に行い、国民の食を豊かに維持していた。この王朝は木材の製造にも成功し、木材で造った船舶で、地中海の交易にも熱心だった。ズィール朝の成功は、チュニジアが農業に適した豊かな土壌をもつ国であったことを伝え、その土地の豊かさは安全保障、政治の安定した制度化や貿易への積極的な関わりをもたらした。そして為政者たちの政治に対する姿勢は、かつてイスラム世界で輝いたアッバース朝のように、人口増加、領土拡大、また文化的な豊かさももたらした。

チュニジア料理


 しかし、ズィール朝が衰退していった過程は、かつてのローマ帝国がそうであったように、農地を使い切り、その豊かな土壌を維持する関心や能力を失ったことと関連する。王朝末期の支配者たちが農業を軽視したことが、帝国が衰亡する要因となった。


ズィール朝を観察したイブン・ハルドゥーン(1332~1406)は、王朝の三世代論を説き、①強い連帯意識に支えられる第一世代、②奢侈と安寧から連帯意識が弱くなる第二世代、③完全に連帯意識が崩壊した第三世代という段階的な発展と崩壊の過程を説明したが、ズィール朝の衰退も国家の繁栄の基盤である農業を中心とした経済発展をおろそかにしたからだろう。

イブン・ハルドゥーン
『歴史序説』
http://ki-44.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-8c30.html


 平成以降の日本経済の元気のなさも、このズィール朝のような歩みを遂げているかのようで、三世代など世襲政治家たちは国家の繁栄の基盤に対する理解に欠け、国民との「連帯意識」を喪失しているように見える。

アイキャッチ画像はズィール朝版図
https://en.wikipedia.org/wiki/Zirid_dynasty

チュニジアの遺跡
2013年9月
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