2021年1月20日、フランスのマクロン大統領は、1830年から1962年までのフランスのアルジェリア支配について謝罪する気はないと発言した。1954年からの8年間にわたる独立戦争では、アルジェリア側の主張では150万人のアルジェリア人が犠牲になったが、フランスが拷問、ギロチンなど凄惨な方法を用いて、独立運動を封じようとしたことは事実で、アルジェリアをはじめとする過去の植民地支配について謝罪する姿勢がないことも、フランス国内でテロが止まない一つの背景となっている。
フランスのアルジェリア支配は地中海に面したアルジェリア北部から始まっていった。アルジェリア北西部にあるトレムセンの街は、ローマ人によって3世紀に造営され、北アフリカのカトリック信仰の中心だったが、7世紀にアラブによって征服された。

位置
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トレムセンは、13世紀後半から16世紀半ばまでベルベル人のザイヤーン朝の首都となり、マグレブの地中海沿岸ルートとサハラ横断キャラバンを結ぶルート上に位置し、またアフリカとヨーロッパの商業を結ぶ途上にあり、アフリカの金がヨーロッパに向かう際の拠点となった。イタリア・ジェノアの紙幣もトレムセンで流通するなど、トレムセンはヨーロッパの金融システムの中にも組み込まれていた。アンダルスのムスリム商人たちは、アルジェリアの地中海に面したオランに貿易港を築いたが、オラン港の存在も通商拠点としてのトレムセンの価値を高めることになった。

https://www.unusualtraveler.com/tlemcen-the-pearl-of-algeria-and-a-must-visit-destination-in-the-north-of-africa/?fbclid=IwAR3R9JLpVnI0kDGik7fXLhZsY_yuIsHEGquiR8TD_iLtgLiIUZT51KjZ04s
ザイヤーン朝には、「アブラハム」という名前のユダヤ人の総督がいて、スルタン(国王)の補佐を行い、レコンキスタによってイベリア半島から逃れてきたムスリムやユダヤ人難民たちに寛容なスルタンとともに、門戸を開いた。
経済的な富を得ることになったトレムセンは、イスラムの学芸の中心ともなり、北アフリカの知的活動を担っていった。大モスクの周辺にはスーク(市場)ができあがり、東方からの毛織物や絨毯、またサハラ砂漠を横断して既述の金や奴隷がトレムセンにやって来た。ザイヤーン朝ではユダヤ人やクリスチャンも共存し、クリスチャンたちは教会をもち、フランク人のバザールも存在し、スルタンの軍隊にはクリスチャンもいた。
トレムセンは現地では「サクランボの街」と呼ばれ、この街ではベルベル、アラブ、ムーア、トルコ、またヨーロッパ文化が混じり合ってきた。トレムセンの大モスクは1136年に建てられ、アルジェリアでは最も古いモスクのうちの一つである。この大モスクは、アンダルス(イスラム・スペイン)の様式で建てられ、アルジェリアで最も美しいモスクとされている。
1830年にアルジェリアを支配し始めたフランスは19世紀末までに20万人の移民をフランスからアルジェリアに呼び込み、フランス、イタリア、スペインからの植民者たちはアルジェリアの全農地の40%を独占するようになり、最も肥沃な土地はヨーロッパの農業企業に与えられていた。現地住民たちを排除する農業形態もまた各宗派の人びとが共存していた中世のアルジェリア社会とは性格の異なるもので、彼らの反発を招くものであったことは言うまでもない。

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アイキャッチ画像はトレムセン
「アルジェリアの真珠」
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