人々の自由への希求を表した歌 ―「悲しき天使」「五月のパリ」「プラハの春」

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Translation / 翻訳

 メリー・ホプキンがヒットさせた「悲しき天使」は、元々は祖国で自由を奪われた亡命ロシア人が故郷を想ってつくった歌だった。作詞はコンスタンチン・ポドレフスキー、作曲はボリス・フォミーンの「長い道を」は1924年にモスクワで書かれて親しまれた。


青い月影の道 あなたを追いかけて
鈴ならすトロイカを ひたすら追いかけた
夜ごと歌うギターの調べ
あなたへの愛の歌 長い道のかなたまでも届けて この想いを
(ロシア語の「長い道を」の動画は https://www.youtube.com/watch?v=vxs43V-pYfw にある。当たり前だが「悲しき天使」と同じ曲である)


 メリー・ホプキンがヒットさせたのは1968年だったが、歌手の加藤登紀子さんは1968年に特別な想い入れがあるそうで、2018年4月に行われたコンサート「TOKIKO’S HISTORY~花はどこへ行った」では、オープニングに続いて「悲しき天使」「美しき五月のパリ」「さくらんぼの実る頃」と3曲を続けて歌ったが、その背景には2018年から50年前の1968年を彷彿させる歌をという考えがあった。「美しき五月のパリ」は1968年のパリ5月革命で生まれた曲で、「さくらんぼの実る頃」はジブリの「紅の豚」の主題歌だったが、1871年のパリ・コミューンの蜂起で亡くなった人々を追悼する歌だった。

https://www.tokiko.com/discography/view/54


 1968年には東欧ではチェコスロヴァキアで「プラハの春」という政治改革要求運動が起こったが、ソ連の軍事介入で制圧されたものの、ソ連支配の下で自由を求める人々の動きを止めることにならなかった。ソ連の支配下であったバルト三国では大規模な合唱祭が数年ごとに開かれていたが、1965年のエストニアの合唱祭では、当局から禁じられていた「我が祖国、我が愛」が2万6000人の合唱者と12万人の参加者が声を合わせて突然歌い始めてロシアから派遣されていた当局者たちも度肝を抜かれる思いで、なすすべがなかった。(志摩園子「レクチャーコンサート 『バルト三国-音楽に織り込まれる自然と人々の声』 大国の支配下 「民族」支える」)

「プラハの春」
http://lingvistika.blog.jp/archives/1064715046.html


 旧ソ連で大ヒットし、2000万枚とも言われるほど大ヒットを記録した「百万本のバラ」はロシア語の歌詞が付けられているが、元々はエストニアと同様にバルト三国の国ラトビアで生まれた歌だった。後に「百万本のバラ」となるラトビアの原曲「マーラが与えた人生」は、1981年にのちに文化大臣になるライモンド・パウルスが作曲し、詩人のレオン・ブリディスが詩をつけた。


 「子供のころ泣かされると 母に寄り添ってなぐさめてもらった そんなとき母は笑みを浮かべてささやいた マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」という歌詞の一節があるが、「幸せはあげ忘れた」という部分はソ連支配に翻弄される小国ラトビアの運命を表すものだった。歌は人々の自由への希求への追い風となり、人々の心を一つにして、やがてソ連支配は終わった。


 ソ連のロシアでも1965年に「ロシア人は戦争を望むか」という歌が誕生し、「母親らに尋ねてみたまえ 我が妻に尋ねてみたまえ 君もその時きっとわかる筈だ ロシア人が戦争を望んでいるかどうかどうかを」と歌われ、ロシアの反戦歌とされるが、政治利用されたとはいえ、ロシア人の本音が表れていたのだろう。戦争をしたくないのは為政者たちを除いてどこの国でも人々の共通する心情だろう。
「ロシア人は戦争を望むか」の動画は 
https://www.youtube.com/watch?v=aJGHGrnwolE にある。


アイキャッチ画像はメリー・ホプキン
https://news.1242.com/article/104357

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