中村哲医師と作家の澤地久枝氏による『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る――アフガンとの約束』(岩波書店、2010年)に、「川筋」の気質について語った箇所がある。福岡北部の遠賀川で石炭の輸送に係わる人々を「川筋者」と言って、気性は荒いが、他人の面倒見がよく、人のために一肌脱ぐ、人生意気に感ずるような人たちのことを形容した。伯父である作家の火野葦平の作品には、中村医師の祖父である玉井金五郎を主人公とした『花と龍』があり、石炭仲仕たちへの人情篤い姿が描かれている。

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中村医師の父親・勉氏は早稲田大学に通っていたが、関東大震災が発生し、九州訛りの強い父親は朝鮮人に間違えられて危うく殺されそうになったが、下宿屋の主人がそこに現われてこれはうちに下宿している学生だと言って救われた。しかし、それで東京が嫌いになり大学を中退して九州・若松に戻る。両親は大酒飲みで、酒も借金をして買っていたらしい。家庭は貧しかったが、経済的には本家の火野葦平の支援があったのではないかという。面倒見のよい両親で、家には常に十数名の居候がいた。

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「旅役者だの、テキ屋だの、いろいろ泊まってましたね。ドサ回りの、売れない旅役者の集団ですから十数名いるわけです。タダで泊めてもらっては申し訳ないというの、せめて薪割りでもさせてくれというけれども、薪がない。しかし、彼らが帰ったあと、きれいな薪の山ができているんです。
それから何日かして、近所から苦情がきまして、『お宅に泊まっていたお客さんたちがうちの板塀を壊した』と(笑)。それで謝りに行ったりして、当時は、子ども心に恥ずかしいなぁと思いましたよ。いま考えると、なんか、楽しかったですね(笑)。」(『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』)
中村医師がなぜアフガニスタンで人助けを行うようになったかが理解できるような家庭環境だが、「うちは流れもん」の家系だと言って同書の中で次のエピソードを紹介している。
「祖父の玉井金五郎も、たしか愛媛県の松山の出身で、彼も変わった結婚のしかたをしています。向こうで許婚者がいたんだそうです。祝言の晩に、『こんなオカチメンコと一緒に生活できるか』といって逃げ出したそうですよ(笑)それで、若松港に来ています。

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うちの祖母も、いわば流れもんで、広島出身なんですが、家が郷士だったので侍としての誇りがあった。勝気な人だったのですが、役人にタバコ畑で強姦されそうになって、相手の睾丸を蹴り上げて、村におれなくなって若松に逃げてくるんだす。そこで二人が一緒になったらしいです。・・・うちの由緒は正しくないです(笑)。」
強気をくじき弱きを助ける侠客のようで、アフガニスタンで人助けをした中村医師の人生は家庭の文化や、川筋者の気質から生まれたものだとあらためて思う。
アイキャッチ画像は中村哲医師
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