ロシアに愛と平和を届けた寺内タケシさん

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Translation / 翻訳

「エレキの神様」と言われ、昨年亡くなった寺内タケシさんにはソ連(現在のロシア)の少女との交流の話がある。少女の父親はソ連の通信社のカメラマンで、そのお嬢さん、エリーナさんは白血病に罹り、入院していたが、寺内さんのレコードを聴き、すっかりファンになり、父親からぜひ娘を寺内さんに会わせてやりたいという手紙が届いた。

寺内タケシ / いとしのエリーナ [日本 キング AAA 9]
https://www.sweetnuthinrecords.com/product/11480


 ソ連大使館に掛け合い、何とかしてほしいと頼み込んだが、なかなか動かない。たまたま寺内さんのコンサートを聴きに来ていたゴスコンツェルト(ソ連の国家音楽委員会)の総裁の計らいでソ連に行くことになった。モスクワの空港に着くと、パトカーや白バイがいる。なんでいるんだと尋ねたら「あんたのためにいるんだよ」と言われた。1976年のことだった。
 ソ連を訪問する前に「いとしのエリーナ」という曲を作り、レコード化したらソ連でヒットチャートの1位になっていた。病院でエリーナさんに会うと、彼女は寺内さんの顔を触りながら、「テリー(寺内さんの愛称)だ」と言って喜んだという。
 翌日、7000人ぐらい入るホールで「いとしのエリーナ」を演奏すると、その一曲だけでスタンディングオベーションになった。

満員ですね
人気ぶりがうかがえます
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%84%E3%81%A8…/dp/B08P7K2BKF


 フロアに向かって寺内さんは「僕たちはこういうわけで日本からやってきた。国境があるから一番いけないことになるんだ。こういう時はお互い様じゃないか。少女のためにできることがあったら、やることはやる。俺らはそういうメッセージをかかえてやってきた」と語りかけた。当時は冷戦の最中、ソ連の核弾頭が日本に向けられていた時代で、「自由主義陣営」にいた日本とソ連の関係は良好ではなく、ソ連国内で起きていることも日本ではよくわからない時代だった。3回目のコンサートの直前にベレンコ中尉がMiG25で日本に亡命し、日本とソ連の間で緊張が走った。
 同じソ連訪問の中で、アルメニア共和国で4万人収容のスタジアムでコンサートをした際に、「函館にMiG25が飛んできた。友好の深い国じゃないから、誤解があるけれど、すわ、戦争だ、みたいな騒ぎになっている。僕たちの父親、母親、おじいさんの時代、恐らくあなた方もそうだと思います。この間の戦争(第二次世界大戦)で、日本人は600万人死んでいます。ロシアの人達は2000万人死んでいます。」と聴衆に語りかけ、みんな第二次世界大戦の後に愛と平和を願うものは立ち上がれといってV(ピース)サインをしながら寺内さんが立ちあがると、聴衆はもちろんのこと、警備の兵士・警官たちまでヘルメットを脱いで立ち上がったという。

アルメニア・エレバン
https://www.intrepidtravel.com/en/armenia?fbclid=IwAR2NhfNOqOMcaUDmS6uTLCB8-eyktBw4Jim-JwNpYFR2WSt7_4xk7SrJ6M4


 翌日の新聞は、「音楽で平和を勝ち取った」と寺内さんのコンサートを伝えた。ナショナリズムを超え、音楽を通じて日本人にも備わるヒューマニズムに訴え、ソ連の人々に理解された人だった。冷戦時代に日本人の平和への希求を対立していたソ連でアピールしたバイタリティーは称賛に値するだろう。合掌。
寺内タケシさんインタビュー | 京都芸術劇場 春秋座 studio21 (k-pac.org) より
アイキャッチ画像は
エリーナさんを見舞う寺内タケシさん
https://www.mercari.com/jp/items/m77685558408/

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