シリア内戦、パレスチナ問題、「イスラム国IS」の台頭など現在の中東オリエント世界の混乱をもたらしたのは、英仏が帝国主義的野心をあらわにしたサイクス・ピコ協定であると言っても過言ではない。この秘密条約は、1916年5月16日に締結された。
19世紀ヨーロッパでは「瀕死の病人」と形容されたオスマン帝国をめぐる外交が列強の主要な関心だった。
サイクス・ピコ協定は英仏の新たな接近の象徴としても生まれたものだった。両国は1881年から1914年にかけて英仏はアフリカ大陸の利権をめぐって競合したが、イギリスとフランスの帝国主義は1898年にスーダンのファショダで衝突する事件も起こした。
オリエント地域について言えば、フランスはベイルートやレバノン山脈一帯に資本を投下し、レバノンに宗教的、文化的活動を展開していった。フランスにとって東地中海の沿岸地帯の支配は、フランスの領土となったアルジェリア、またその保護領のモロッコ、チュニジアを海路で結ぶには都合がよかった。
イギリスはパレスチナのハイファ、ペルシア湾岸、イラクのバスラなど中東の海岸一帯を支配することに関心を寄せた。イギリスにとっては、1909年にイラクで最初に発見された石油も魅力のあるものだった。英連邦軍は1914年11月にバスラを占領してからイラク北部への野心を次第に抱いていった。
ロシアも、サイクス・ピコ協定でイスタンブール、黒海から地中海に至るトルコの海峡、アナトリア東部の支配を約束された。サイクス・ピコ協定は、ロシアのペトログラードで結ばれた英仏ロの三国間の秘密条約だった(ロシアは1917年の十月革命で離脱)。

1918年10月18日にシリアのダマスカスが英連邦のオーストラリア軍に落ちると、イギリスが支援したハーシム家(預言者ムハンマドの出身一族とされる)のアラブ軍がダマスカスを支配するようになり、ハーシム家のファイサルは1920年3月に「シリア・アラブ王国」を建国した。しかし、このアラブ支配はサイクス・ピコ協定に反するものとして、フランス軍は1920年3月から7月にかけて成立していたアラブ王国を軍事的に壊滅させた。
サイクス・ピコ協定は、中東オリエント地域の民族・宗派といった社会的集合を考えずに国境の線引きを行い、イラクやシリアなどの少数派支配(イラクはサダム・フセインまでスンニ派の少数支配)は多数派の宗派、異なる民族を力で封じ、独裁的性格を強めていった。武力など「力」によって秩序をつくるというのがこの地域ではいわば「常識」となり、イスラエルによる占領地支配、またISの台頭も、サイクス・ピコ協定などヨーロッパ植民地主義の負の遺産がその背景の一つにある。悲惨な戦争が継続するシリアは「サイクス・ピコ協定」の境界線をもとにできあがった国だが、介入を強めるロシアやトルコなど諸外国の思惑によってさらなる分割や人道上の危機に瀕するようになっている。
アイキャッチ画像は映画「アラビアのロレンス」より
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