エジプトのスエズ運河は、海運や地政学上重要な世界の「チョークポイント(締められることで、苦しむポイント)」である。
この運河は、空想的社会主義者のアンリ・ド・サン=シモン(1760~1825年)の思想的影響を受け、産業を中心とした未来社会を考えるサン=シモン主義者たちが、世界が「普遍的結合」を行うことによって、全人類が進歩に向かうと考える中で構想された。サン=シモンに影響を受けたミシェル・ミシェル・シュヴァリエ(1806~1879年)は、世界の対立構造は西洋とオリエントによるものであり、その対決の舞台は地中海だが、地中海を融和の舞台とすることで、世界の永続する平和を実現できると主張した。シュヴァリエは主に鉄道によって東西世界の連結を考えたが、サン=シモン主義者の中で特にスエズ運河建設を提唱したのは、バルテルミー・プロスペル・アンファンタン(1796~1864年)で、スエズ運河の建設が地中海地域の平和に寄与するものと考えた。
陸路で紅海から地中海地域を行き来した者たちは古代からこれらの海が近接していることに気づいており、この地域では小規模な運河が建設されてきた。サン=シモン主義者たちはエジプトの産業を振興し、ファラオの時代の栄光のように、エジプトが産業を発達させ、それに西洋が投資を行うことによって、両者の連帯が実現し、また国際的金融システムの発展によって、世界の調和がもたらされると考えた。
アンファンタンらは、エジプトに赴き、オスマン帝国のエジプト総督ムハンマド・アリーにスエズ運河の構想を説明したが、陸路での商品の通行関税に多くの利益を得ていたムハンマド・アリーはスエズ運河の工事を認めることはなく、アンファンタンらはカイロ北のダム「デルタ・バラージュ」の建設に従事した。

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他方、近代エジプトの啓蒙思想家のタンターウィー(1801~73年)もフランスのサン=シモン主義者たちのように、世界平和はスエズ運河、パナマ運河の開削と、アメリカ縦断鉄道の建設という三大事業によって成し遂げられると1960年代に主張した。タンターウィーの構想も壮大な交通プロジェクトによって東西の交通を容易にして、世界を一つにまとめ上げるというサン=シモン主義者たちの「普遍的結合」の考えに近いものだった。
ムハンマド・アリーの息子のサイードは、1854年にフランス人のフェルディナン・ド・レセップスに運河の開削権を与え、1856年から63年にかけて2万5000人から4万人のエジプト農民たちが運河の開削工事に従事したが、過酷な労働のために、2万人の死者を出した。本業の農業に従事することなく、運河工事にかり出された農民が多かったために、エジプトの食糧事情は悪化した。また、運河開通を祝うヴェルディの「アイーダ」は1871年にカイロのオペラハウスで上演され、エジプトの復活が成し遂げられたかのような印象もあったが、経済的に苦しくなったエジプトは、運河会社の株式をイギリスに売却し、エジプト財政は英仏の帝国主義の管理下に置かれ、サン=シモン主義者たちの理想は実現することなく、エジプトは1956年にナセルがスエズ運河を国有化するまで運河からの収入を得られなかった。

1956年
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アイキャッチ画像は
スエズ運河に中国の影 開通150周年 エジプト・経済特区で投資活発
2019年12月9日 16時00分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/26830
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