フランスのマクロン大統領によるムハンマドを冒涜する自由があるという発言や、ヨーロッパでムスリムの排斥を唱える極右の台頭などによって、イスラム世界とキリスト教世界の「文明の衝突」構造が強まっているかのようだが、イスラムとキリスト教の断層線は、対決や戦争、暴力ばかりによって色づけられてきたわけではない。
たとえば地中海に浮かぶシチリア島は、イスラムとキリスト教の共存の舞台で、現在でもムスリムとクリスチャンが共生する地区がある。ギリシア人、ローマ人、アラブ人、フランス人、スペイン人などがこの島に足跡を残し、まさに文明の交差路となってきた。シチリアの料理には、アラブ料理の影響があり、柑橘系の香料、ドライフルーツ、蜂蜜などを用いたレシピは北アフリカのものだ。

https://www.arabamerica.com/sicilys-unique-contribution-italys-cuisine/?fbclid=IwAR0q3ltSqm4coXTq07aztzGX6rsq4aMtyBhZQkzzSyjdz0-MWMKvpJMzE0E
シチリア島南西部にあるマザラ・デル・バッロの町では、昼間の礼拝の呼びかけ=アザーンとともに、キリスト教会の鐘が鳴る。マザラ・デル・バッロの学校はアラブ文化に寛容で、アラビア語の授業をアラブ系、イタリア系住民に提供している。またこの町にはチュニジア政府が運営する学校もある。マザラ・デル・バッロの町は文化的多様性、包摂性が顕著に見られ、1970年代にシチリア島の漁業が危機的状態に陥ると、チュニジアの漁師たちが多数やって来て、この島の漁業を支えるようになった。

1861年にシチリア島がイタリアの植民地支配を受け、島の経済が落ち込むようになると、シチリア島民はチュニジアに渡り、より良い将来の生活を考えるようになった。このように、シチリア島とチュニジアは経済的にも相互に支え合い、マザラ・デル・バッロの町は、地中海の平和的共存の地ともなっている。
この島は、9世紀から11世紀にかけてアラブのアグラブ朝の支配を受けたが、この王朝の下では、異教を迫害することなく、イスラムと、キリスト教、ユダヤ教が共存していた。ヨーロッパ中世が暗黒時代と形容される一方で、アグラブ朝は芸術、科学、農業、建築でこの島の繁栄を築いた。ムスリムたちはシチリア島に綿花、麻、ナツメヤシ、サトウキビ、桑の実、柑橘系の果物などの栽培や、織物、製糖、ロープ、絹や紙製造の産業をもたらした。
現在でもこの島にはアラビア語起源の言葉が少なからずあり、シチリア島最大の都市パレルモの名称もアラビア語の「バラルム」に由来するが、これはギリシア語の「パノルモス(避難港)」から借用したものだ。

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ヨーロッパ大陸全体では、難民の流入などもあってイスラム排除のムードが強いが、シチリア島ではムスリムを排斥する動きはほとんどなく、島ではベリーダンスなども人気を集めているようだ。歴史的、文化的背景もあってシチリアでは共存の形態が根強く見られるが、ムスリム移民を抱え、ヘイトクライムが増加するようになったヨーロッパ社会にイスラムとの共生の知恵やあるべき姿をシチリア島が示している。
アイキャッチ画像はシチリア島の伝統衣装
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