水さえあれば多くの命が救えると考え、日本の井戸掘り技術を発展途上国に伝えたのは以前にも紹介したことがある農林省技官を務め、農学博士だった中田正一氏(1906~1991年)だった。中田氏は、中村哲医師と同様にアフガニスタンに愛着を覚え、アフガニスタンで飲み水を得られずに死んでいく人々が絶えない様子を見て、日本の井戸掘り技術を世界に伝える決心をした。
中田氏は農業の技術とは人間が生きるための技術であり、その技術は百ほどあるから百姓と言うと説いた。本当は百の姓をもつ人たち、つまり一般の人々というところから百姓という言葉が成立したのだが、中田氏は「姓」を技術と解釈した。世界中の農民たちは理論や講義だけでは動かない。実際の技術を見せれば、頑固な農民たちも心を動かしてくれるものと信じていた。農民は長年の経験から技術を会得した頑固な人々である。だから実際に技術を見せないと納得してくれない。

中田氏が千葉県大多喜町に創設した「風の学校」の理念はまさに人々が自活できる技術を示して体で覚えてもらい、それを世界に伝えることだった。発展途上国の人々でも井戸掘りやその維持ができるように、機械ではなく、現地にある材料や器具を使って千葉県に残る伝統的な上総掘りの技術を伝えていった。中田氏の理念に共鳴した「風の学校」の生徒たちは世界各地に散らばって現地の人々と一緒に井戸を掘っていった。
アメリカは、1960年代、冷戦の環境下でソ連との対抗上、ケネディ、ジョンソン政権時代にアフガニスタンにアイゼンハワー政権時代の倍以上にも上る多大な援助を行い、南部ヘルマンド州の灌漑事業を進め、遊牧民を定住の農業従事者に変えようとしたが、まったく成功しなかった。アメリカは現地社会の実態を見ないで理念ばかりが先行して「講義」や「理論」でアフガン社会を変えようとしたが、遊牧民たちには説得力がなかった。その結果、アフガニスタン政府はソ連寄りに舵を切り、ソ連軍のアフガニスタン侵攻やそれに続く戦乱を招く遠因ともなった。アメリカは同様にイランでも「白色革命」を国王政権に断交させて農地改革を行ったが、イスラムの寄進地まで含む農地改革は聖職者層の猛烈な反対を招き、1979年の極端に反米的な革命の背景となった。

それに対して中田氏の「風の学校」は、井戸を掘削して実際に水を掘り当てることで、現地の人々に日本の井戸掘り技術の有用性や有効性を理解させていった。世界の農民の友となるには農民と同じように試行錯誤を繰り返していかなければならない。「風の学校」の自活実習とは、農業で自活するすべを覚え、農民の考え方や気持ちを理解することを重視し、また思いやりの心をもち、良好な人間関係を確立することが、海外の活動の基本である。「風の学校」の先生は近所の農家、稲やダイコンなどの農作物、牛、豚など周辺にあるものすべてであり、生徒たちに問題意識がなければ何も学ぶことはできない。途上国の農業技術は日本の明治、大正、昭和初期の農業や有機、有畜農業が適合するから「風の学校」の近隣に住む高齢の農業従事者は貴重な先生たちである。また、知識は体を通して得られると実践に役立つことを目指し、さらに「風の学校」は手を動かすことによって頭を訓練することなどもモットーにしていた。(風の学校・・・asahi net より)
干ばつが世界で相次ぎ、またウクライナでの戦争で中東やアフリカでは食糧危機が深刻になりそうな気配である。外国への支援とは「風の学校」の理念のように、現地で長期にわたって伝えられ、現地のモノでつくられてメインテナンスが行われ、現地の人々の自助努力を促すものでなければならないように思う。

今日は「風の学校」に井戸掘りの技術資料を見せてもらいに来ました。
しかし、その風の学校は2年前に閉校して、今は実在していない。
創始者の故中田正一さんが亡くなって17年経ちますが、
今なお、卒業生が、個人で国際協力を行っています。
久しぶりに伺った「風の学校」の看板を見て、チョッと寂しくなった。
でも、奥さんは故人の志を15年間守ってきました。。。
「お疲れさまでした」という言葉が、すぐに口を出た。
http://blog.livedoor.jp/seddie/archives/51005672.html
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