ロシアのウクライナ侵攻によってトルコに逃亡して国籍を得ようとするロシア人が増加している。彼らはプーチン体制に批判的な人々だが、トルコの不動産を購入すればトルコ国籍を得られる仕組みとなっていて、トルコ政府が6月に導入した新法によればその最低額は40万ドルだという。ロシア人たちは制裁によってヨーロッパに旅行できず、トルコが人気のある渡航先、あるいは亡命先となっている。

三島由紀夫の『鏡子の家』の鏡子のモデルになった。
戦前、日本にはロシア革命を嫌って日本に亡命してきたロシア人(赤軍の抑圧を逃れたから「白系ロシア人」と呼ばれている)がいて、白系ロシア人の民族性はロシア人、ウクライナ人、タタール人、ユダヤ人、ポーランド人など多様であった。
タタール人たちの宗教はイスラムだったが、1950年代から80年代にかけて「べらんめえ調」の日本語で活躍したタレント、ロイ・ジェームスもタタール人のムスリム(イスラム教徒)だった。芸名は名前からしてアングロサクソン系のようだが、出生名はハンナン・サファ、父親のアイナン・ムハンマド・サファ(1898~1984年)は、現在のロシア連邦中部のウラル山脈の西にある都市ペルミの出身だった。

https://www.youtube.com/watch?v=4XDhkHa6sCc
戦争中ロイ・ジェームスは多難な生活を送っていたようだ。1945年に外国人という理由で軽井沢に強制疎開させられた経験があり、日本が終戦を迎えた時の経験を次のように語っている。
「私は終戦の時、御ショウ勅を聞いて流した涙は、外人ヅラと外人籍のためにうけた死にもまさるゴーモンや労働や迫害に対してではない。こんなにまで外人の子供達が苦労して来たのに、日本はどうして負けてしまったのだ、どうして勝てなかったのかと、ただ無性にかなしく、くやしかったのだ。その時に私は決してトルコ人として泣いたのではなく、苦労を共にした日本人達と一緒に心から流した涙であった。」

https://twitter.com/rakuhaku1853/status/1343891030580445186
永六輔はロイ・ジェームスより4歳年少だったが、少年時代のロイ・ジェームスのことを『昭和─僕の芸能私史1926―1989』(1999)の中で回想している。
「そのころ、隣の竹町国民学校に、青い目で金髪の学童がいるという噂があった。そして外国人は軽井沢に収容されるらしいというので、その子を見物に行った。僕が初めて見た西洋人の子供だ。大人の西洋人は聖路加病院で見かけていたが、同世代となると珍しさが別だった。その金髪の子は、実に堂々としていて、見物のガキどもをにらみ返し、僕もバッチリとにらまれた。その目と再び出会った時、彼の名前を知った。ロイ・ジェームス。」
(福田義昭「昭和期の日本文学における在日ムスリムの表象( 4 )─軽井沢篇─」(『アジア文化研究所研究年報』vol 53.2019-02)
永六輔の文章は、終戦の時のロイ・ジェームスの回顧と重なるものがある。「外人ヅラ」のために同世代の子供たちからは好奇の目で見られ、官憲からは竹刀で殴られたこともある。米英を敵視した戦中には敵意をもって見られたこともあった。また強制疎開先では労働も強いられていた。それでも、亡命2世として、父の祖国に戻ることもできず、日本人として生きるしかなかった心情がうかがえる。あまり知られることがない戦中の外国人の扱いだ。
ウクライナ戦争でウクライナ人たちが日本に「避難」してきた。また、トルコ国籍のクルド人が難民としてようやく初めて認められた。外国人を見る目や外国人との接し方が戦中と変わっていないのであれば悲しい。ロイ・ジェームスは草野球の途中でも礼拝を行うというほど敬虔なムスリムであったと永六輔は回想している。日本国籍を得るには40の書類を提出しなければならかったことを指摘して、日本人は日本のことをよく考えてほしいと語っていた。日本を愛しながらも日本は外国人にやさしくない国だと言っているかのようだった。

アイキャッチ画像は ロイ・ジェームス
https://bunshun.jp/articles/photo/8108
コメント