旧統一教会によるいわゆる霊感商法による被害は韓国やアメリカにはなく、日本を中心に起きているが、その背景には日本が堕落したエバ(イヴのこと)の国で、アダムの国である韓国に資金を調達するなど仕えなければならないという考えがあるらしい。集団結婚にしても韓国が日本帝国主義による36年間の支配から受けた意趣返しのためにも日本人女性の献身が韓国人男性によりいっそう求められるのだそうだ。(ABEMA TIMESなど)
こういう教義に接するにつけて旧統一教会の教義とは甚だナショナリスティックなもので、普遍的な価値を説く宗教の本質とは異なり、また国境を意識するのは宗教本来の姿ではない。自民党内の保守色が強い、日ごろ愛国教育などを説く議員たちが旧統一教会に接近したのは大きな矛盾だが、戦前日本の軍部が日本人を三流の民族と決めつけていたヒトラーと同盟を組んだことを彷彿させる。

昨年5月に出した拙著『イスラムがヨーロッパ世界を創造した』(光文社新書)について「本がすき」というサイトの中で弁護士の森健次さんが書評を書いてくださった。
https://honsuki.jp/pickup/53562/
森さんは本の帯に記したジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207~73年)の詩が何よりも目を引いたと書かれている。
「すべての宗教は、同じ一つの歌を歌っている。相違は幻想と空虚に過ぎない」
ルーミーは数日前にも紹介したが、アフガニスタン北部バルフ近郊で生まれたイスラム神秘主義の詩人だ。ルーミーの詩に接すると、冒頭の教団の教義とは真逆な、清々しい想いになる。ルーミーは、上の短い詩と同様な事象を「道はいろいろ違っても、行きつく先はただ一つ」とも表現した。森さんはこれに比定する日本人の情感として鎌倉時代の西行法師が神道の伊勢神宮を参拝した時に詠んだ歌「何事がおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙溢れる」を紹介している。西行は伊勢神宮の神々しさに感激し、誰か、何かわからないけれども、自分を護ってくださっている、本当に有り難いことだ、涙が出るほどに感動したという想いを歌に込めた。日本でも仏教、神道の違いはあっても人が感じることには相違がないと言っているようだ。

https://zushio-christianity.hatenadiary.org/entry/20160913/p1?fbclid=IwAR09i4CtkuFauM7zNTZO6INZTiBHWYZya2NrJk_xBxp2zRtuhu7My80DKHE
アフガニスタンで支援事業を行った中村哲医師は現地のイスラム教徒から『あなたはクリスチャンなのになぜイスラムのために力を尽くすのか』と問いかけられた時に「あの雪を冠った山の頂を見ろ。目指す聖なる場所は一緒だ。それぞれ登り口が違うだけだ」と答えたというのもルーミーの考えと一致している。(堂園晴彦「『最後は日本で死にたい』…アフガニスタンで襲撃された故・中村医師が漏らした本音」(『現代ビジネス』)

有り難うございます。
次のルーミーの詩もまた宗教の本質的な同一性を詠んでいる。
「光はひとつ」
ランプはそれぞれ違っても、放つ光は同じひとつ。
光、それははるか彼方から届けられる。
あなたがランプに眼を奪われ続けるのであれば、
あなたはあなた自身を奪われてしまう。
ランプの種類は数限りなく、各人の嗜好もまた然り。
あなたの視線を光に転じ、光そのものを見つめよ。
そうすれば、あなたは地上における事象に特有の、
二元性の限界から解き放たれるだろう。
そのようにして新たな視線を獲得すれば、
イスラム教徒、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒の違いは、
依って立つ位置の違いに過ぎないことが理解できよう。
ルーミーと同様にイスラム神秘主義思想家であったイブン・アラビー(1165~1240年)は次のような詩を残した。
私は愛の宗教を告白する。
愛のラクダがどこに向おうとも、
愛こそ私の宗教であり、私の信仰である。
旧統一教会のようなカルト教団に欠けるのは本来宗教が説くべき「愛」の概念であり、そのために国家間の分断を強調したり、対立を煽ったり、さらにはジェンダー差別を口にして戦争を唱道したりする。ヘイト的発言を行い、難民受け入れを拒否する日本の極右の政治家たちもご同類で、考えがよく重なっている。

https://blog-imgs-52-origin.fc2.com/…/002500-rumi-come.jpg
※ルーミーとアラビーの詩の訳は竹下政孝「スーフィズムと人間の尊厳性より」
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