バルカン半島北東部に位置するルーマニアという国が日頃日本でニュースを通じて紹介されることはあまりないが、1989年の東欧革命を知る世代は、独裁者チャウシェスク大統領の体制があっという間に崩壊し、夫妻がリンチされるように「処刑」されたことは強く印象に残っているに違いない。

チャウシェスク
国名は「ローマ人の国」を表わし、2世紀にローマ帝国の属領となったが、3世紀に放棄されて、スラブ人などの通過地となったが、1300年頃ワラキア、モルダヴィアの2侯国が成立し、1861年にオスマン帝国の支配を受ける。1877年から78年にかけて露土戦争でロシアが勝利すると、1881年にルーマニア王国として独立を認められた。1947年に人民共和国となり、1965年からチャウシェスク共産党書記長(1974年から大統領)の下で独裁体制を強化した。

https://www.jiji.com/jc/d4?p=cea090-jlp01295180&d=d4_mili
ルーマニアのムスリムたちは主に東部の黒海に面するドブロジャ地方に居住し、中央政府ともトラブルを起こすようなことはほとんどなく、ルーマニア人としてのアイデンティティを強く意識して生活している。やはりドブロジャ地方にあり、黒海に面するコンスタンツァの街にある大モスクは高さ50メートルで、威容を誇る大きなミナレット(尖塔)をもつが、1910年にこの街へのムスリム・コミュニティーの貢献に対してキャロル1世が建立したものだ。その規模の大きさからもしても国王がいかにイスラムに敬意を払っていたかがわかる。

http://www.panacomp.net/romanian-folk-costumes/
15世紀からオスマン帝国がルーマニアに進出し、ルーマニアを支配したが、それに伴ってトルコ系の人びとも移住してきた。ドブロジャ地方北部はロシアの支援を受けて1878年からルーマニアの事実上の支配下に置かれた、オスマン帝国領内に帰還した者たちがいたが、現在でもトルコ系ムスリムの血を引く人びとが現在64、000人ほどいる。彼らは、自らが他の東欧諸国のムスリムたちと比べると、キリスト教社会で平和的に共存できていると語っている。1870年代ムスリムがドブロジャ地方のメドジディア市で人口の多数であった時、キリスト教会を建立するための資金集めに奔走したというエピソードもあり、双方が互いに扶助しながら生活してきた。
ルーマニアのムスリムたちの民族的背景はトルコ人が26,000人、タタール人が20,000人と多数派を構成するが、タタール人たちは1783年にロシアがクリミア半島を併合した際に難民として逃れてきた。コンスタンツァには、クリミア・タタールの旗が街の至るところで見られ、クリミアのかつての支配者たちの肖像が街頭に描かれてもいる。ロシアがクリミア半島を併合すると、タタール人たちは抗議デモを行ったが、彼らの政治意識は歴史的に形成されてきたルーマニア人の多数の人びとの反ロシア感情にも重なるのかもしれない。
チャウシェスク時代もイラン、レバノン、リビアなどイスラム諸国と良好な関係を築く外交を行ったが、可能な限り多くの国と友好関係を築くことは、バルカン的な伝統で不可避なことだったのかもしれない。第一次世界大戦ではルーマニアは連合国として参戦し、少なからぬトルコ系の人びとが中央同盟のトルコのオスマン帝国と戦い、戦死している。
現在、イスラムの宗教的慣行は自由に行われるが、ルーマニアでは若者たちの間には貧困からの脱却という共通の目標がある。首都ブカレストには様々な国からのムスリム移民が居住するが、この国ではイスラム・フォビアは強く感ぜられず、ムスリムは政治や社会に円滑に統合されている。2017年には、タタール系のムスリムで社会民主党のセビル・シャイデ党首が首相の指名を受けたこともある(ヨハニス大統領が政治的経験のないことを理由に任命を拒否)。
アイキャッチ画像はルーマニアの女優
Alina Văcariu
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