ロバート・ケネディの暗殺とパレスチナ問題

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1968: Senator Robert Kennedy speaking at an election rally. (Photo by Harry Benson/Express/Getty Images)
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Translation / 翻訳

「法が犯されたとき、我々はいつも間違った方向に注意を向けている。間違いとわかっていることに我慢した時、忙しいから、恐いからと不正に目をつぶった時、声を上げることに失敗した時、我々は自由や良識、正義に打撃を与えているのだ。」


 これは、1968年6月5日に暗殺されたロバート・ケネディ上院議員(当時)の言葉だが、森友・加計問題で文科省前事務次官が「公平・公正であるべき行政がゆがめられた」という中で、文科省がいじめ記載メモ隠蔽で神戸市教委を指導することができるのかと思ってしまう。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO3137021005062018CC0000/ など


「我々の移民に対する態度はアメリカの掲げる理想への信頼を反映している。我々はいつも才能と気力があれば、底辺から這い上がることは可能だと信じてきた。これは人種や生まれた場所によって変わるものではない。」(ロバート・ケネディ)

人は理想のために立ち上がり、人類の幸福のために行動し、不正に対してこぶしを振り上げる。
そのたびに、人は小さな希望のさざ波を送りだす。
そのさざ波は、エネルギーと勇気にあふれた他の無数の中心から生まれたさざ波と交差する。
そのとき、これらのさざ波は一つの波となり、圧政と妨害の巨大な壁を押し流すだろう。
https://www.amazon.com/Robert-Kennedy-Stands-Famous-Person/dp/B00JEFBEM0?fbclid=IwAR1K1eToYb4mnTyRgexPOl3KZcXWAY17k91sCBuFD0XzLFLtW_G8-kL7sIY


 イスラム系移民の禁止措置をとったトランプ前大統領とは真逆とも言える考えだが、こうした移民に関する理想はロバート・ケネディに1948年のイスラエル独立を支持させることになったかもしれない。ロバート・ケネディを暗殺したのは、彼のイスラエルにシンパシーをもつ姿勢に反感をもったパレスチナ系移民のサーハン・サーハン受刑者(79歳)とされるが、現在、再捜査を求める運動もあり、息子のロバート・ケネディ・ジュニアもこの活動を支持している。


 6月5日は、ロバート・ケネディ暗殺の前年である1967年の同日にイスラエルが第三次中東戦争を開始した日で、イスラエルはエルサレム旧市街やヨルダン川西岸など占領地を獲得した。確かなのは、サーハンが1944年にエルサレムのクリスチャンの家庭で生まれ、1948年に第一次中東戦争が発生すると、家族全員が難民となり、イスラエルの過激な民兵組織イルグンによってエルサレム旧市街のダマスカス門付近で殺されかけたことがあったことだ。彼にはイスラエルの暴力がトラウマとして残り、カリフォルニアに移住した後も武力でパレスチナ人国家創設を目指すファタハ(パレスチナ民族解放運動)を支持する発言を行っていた。一つの移民国家を創るのに、先住の人々の家屋、土地、職を奪うというのは完全な誤りだというのがサーハン受刑者の考えだった。


 トランプ前大統領はエルサレムに米国大使館を移転したことを誇ったが、しかし、パレスチナ問題(中東和平)の公平で、公正な進展がなければ、反欧米のテロなど中東を背景にする暴力が払拭されることはないだろう。

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