文化の相互作用を知ればヘイトはなくなる -イスラムのムガル帝国の影響を受けたレンブラント

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Translation / 翻訳

すべての宗教は、同じ一つの歌を歌っている
相違は幻想と空虚に過ぎない ―ルーミー


 イスラム文明の文化や芸術、学芸を知れば、イスラムへの見方はきっと変わるだろう。トルバドゥール(中世ヨーロッパの宮廷貴族の恋愛を叙情詩に歌い上げたもの)の詩人は、アラビア語から叙情的な美しさのヒントを得て、またアラビア語は15世紀までスペイン南部の宮廷言語だった。同様に、シチリア島の12世紀のパラティーナ礼拝堂は、10世紀から12世紀のエジプトの支配者であるファーティマ朝の宮廷様式で描かれ、金箔が施された。


 また、イスラム文化も、ビザンツ(ギリシア)やローマ、古代ペルシアから影響を受けて育まれ、コスモポリタン的な性格をもっていった。「中東」という平べったい言葉では宗教、文化、社会の多様なモザイクのイメージが浮かんでこない。

レンブラント
「樹の下の4人の東洋人たち」
アマゾンより

 オランダの画家レンブラントがムガル帝国の芸術を称賛していたことはあまり知られていない。南アジアのイスラムのムガル帝国は、宮廷用語がペルシア語であったが、その建築様式や芸術もペルシアの強い影響を受けていた。ムガル朝の細密画は、ペルシア人画家の活動や細密画が描かれているペルシア写本の入手によって、サファヴィー朝ペルシアの様式を基に発展していった。

アムステルダム国立美術館
Amsterdam’s famed Rijksmuseum on July 8 began a historic restoration of Rembrandt’s “The Night Watch,” erecting a huge glass cage around the painting so the public can see the work carried out live.
https://www.hurriyetdailynews.com/museum-starts-live-restoration-of-rembrandt-masterpiece-144796?fbclid=IwAR2LqbwcmyduJpR7snQPg1AHKe_BB6avQoNzFWfqPeyeSaoJsWo3Z8fhmg0


 レンブラント自身はインドを旅行したことはないが、ムガル帝国の細密画から強い印象や動機を得た。第3代皇帝アクバル(在位1556~1605年)の時代、1580年ぐらいからイエズス会の宣教師たちが宮廷にもち込んだ西欧絵画の影響で、ムガル帝国の細密画はペルシアの伝統的な作風に加えて遠近法や陰影法が採り入れられることになり、独特の発展を遂げることになった。


 第4代ジャハーンギール(在位1605~1627年)の時代には、東インド会社によって多くのムガル帝国の細密画がオランダにもたらされ、レンブラントだけでなく、他のオランダの画家たちにも強いインスピレーションを与えることになった。東インド会社が介在していたように、ムガル帝国の細密画には経済的価値もあった。レンブラント自身も細密画を日本の和紙の上に描き、彼自身の陰影法や遠近法を採り入れた。このようにレンブラントの細密画は、17世紀の東西文化の交流を象徴するもので、オランダの貿易活動や、またヨーロッパのオリエント文化への関心によって実現した。


 レンブラントはムガル皇帝たちの肖像画も描いたが、ムガル帝国の肖像画の荘厳なスタイルを芸術的に伝えることに苦心し、顔の特徴を細心の注意を払って描いた。


 世界の文化は、イスラム、キリスト教、ユダヤ教、また古代ギリシア、ローマ、さらには東洋の宗教や文化が重なり、相互に影響し合うことによってより豊かに発展してきたが、イスラムへの理解も、その文化や芸術の歴史を排除してはできないし、その理解は世界18億人の人々によって信仰されるイスラムとの共存の基礎となるものであることは疑いがない。

アイキャッチ画像はレンブラント
「樹の下の4人の東洋人たち」
アマゾンより


 

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