エリザベス女王の「イスラエル・ボイコット」と女王は預言者ムハンマドの子孫?

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 昨年亡くなったイギリスのエリザベス女王について、昨年9月9日付のイスラエルのリベラル系「ハアレツ」紙に「120カ国以上訪問した女王はイスラエルには来なかった。女王の非公式ボイコット」という記事が掲載された。


 女王はパレスチナ問題について多くを語っていないが、記事によれば、1984年にヨルダンを訪問した時、ヨルダンとイスラエルの境界であるヨルダン川沿いからパレスチナ人が住むヨルダン川西岸を望むとイスラエルの戦闘機が頭上を飛来した。女王は「なんて恐ろしい」とつぶやいた。またイスラエルの入植地が記されたヨルダン川西岸の地図を見ると、「憂鬱だわ」と述べたという。こうしたエピソードを紹介しながら、記事を書いたオフェル・アデレト記者は女王自身がイスラエルを好まなかったことをほのめかしている。イスラエルを訪問しなかったエリザベス女王にはパレスチナのイギリス委任統治当局に対する極右シオニストたちのテロの記憶もあったに違いない。


 イギリスの委任統治は第一次世界大戦中のフランスとの密約サイクス・ピコ協定に基づくものだったが、イギリスはアラブ人に対してはフサイン・マクマホン書簡でアラブの独立を約束し、バルフォア宣言でユダヤ人国家の建設も認めていた。ユダヤ人のナショナリズムであるシオニズムに基づいてユダヤ人たちがパレスチナに移住してきたが、ユダヤ人の流入はアラブ人の生活を圧迫するものだった。1936年には「アラブの反乱」が置き、ユダヤ人の移住に対する抗議、抵抗の意思が強く示されたが、イギリスの委任統治が最も手を焼いたのはユダヤ人の極右勢力によるテロで、「イスラエルの地における民族武装組織(イルグン・ツヴァイ・レウミ)」は1944年に、ユダヤ人国家の創設を認めないイギリス政府との戦争を宣言し、1946年7月22日にエルサレムのキング・デーヴィッド・ホテル爆破事件を起こし、この事件ではイギリス人28人を含む91人が亡くなった。イギリス委任統治下のパレスチナで非合法組織とされたイルグンは地下活動を行い、イギリスの委任統治当局やパレスチナ人などに対してテロを行った。イルグンのメンバーの中にはイギリス委任統治政府によって死刑に処せられた者たちもいた。

イギリス委任統治当局から指名手配されたイルグンのメンバーたち
https://www.jewishvirtuallibrary.org/the-role-of-jewish-defense-organizations-in-palestine-1903-1948?fbclid=IwAR34AYHWwDhTNBEe0ivVg3V1_75m3vOXMeHg-0Q08IeB-nk5x70XceIYE6w


 また、もう一つのシオニズムの過激派組織「シュテルン・ギャング」は、パレスチナのイギリス委任統治当局に対するテロ活動をひたすら行い、イギリスよりもナチス・ドイツに親近感をもち、ナチスにユダヤ人のパレスチナへの移住を働きかけていた。創設者のアブラハム・シュテルン(1907~1942年)は、ユダヤ人至上の世界観をもつ民族主義的、また自らの考えを絶対とする全体主義的論理でパレスチナ全体にユダヤ人国家を創設することを考えていた。

シオニストがアラブ人にしていることはナチスがユダヤ人にしたことと同様だ ーアインシュタイン
https://www.pressenza.com/2018/04/albert-einstein-israel-freedom-party-closely-akin-nazi-fascism/?fbclid=IwAR2jAoIqvnTpp1F2XYZDJF4UJ_fj8ByynLKMw4gsC6UVEsP5GgG6RkOMpw0


 イギリスの委任統治当局は「テロリスト」のシュテルンに懸賞金をかけ、シュテルンはスーツケースの中に寝袋を入れ、テルアビブの隠れ家から隠れ家を渡り歩いたが、1942年2月12日、イギリスの治安部隊によってアパートで殺害された。


 UPI(United Press International)の1986年10月10日付記事に「バッキンガム宮殿のモスレムたち(MOSLEMS IN BUCKINGHAM PALACE)というものがあって、それはエリザベス女王はイスラムの預言者ムハンマドの子孫という内容だった。


 スペインのセビーリャ(セビリア)でアッバード朝を創設したアブー・アルカースィム・イブン・アッバード(Abu al-Qasim Muhammad ibn Abbad)は、預言者ムハンマドの娘ファーティマの子孫であったと伝えられている。上の記事によれば、アルカースィムは1042年に亡くなり、その後孫のムハンマド・アルムタミッドが1071年にセビーリャからコルドバを支配するようになったが、1091年にムラービト朝に征服され、アッバード朝は崩壊した。アルカースィムにはザイダという娘がいたが、ムラービト朝の攻撃の間、カスティーリャとガリシアの王であったスペイン王レオンの元に逃れた。ザイダはローマ・カトリックに改宗し、アルフォンソ国王と結婚し、洗礼してイザベラと名乗るようになった。アルフォンソ国王とザイダの血を引くマリア・デ・パディーリャはカスティーリャ王ペドロ1世と結婚し、4人の子どもをもち、その娘たちはイングランドのエドワード3世の息子たちと結婚した。その子孫がエリザベス女王というわけである。

スペイン・セビリア
アルカサル
https://www.arcre.org/meet-the-muslim-princess-zaida-spanish-ancestor-of-the-british-royal-family/?fbclid=IwAR3JJ6BLQX3gE1mjuTiDyKVsFktunUrw8ZtOTY1jS8fxB6KL_WtHGl1_dCI


 UPIの記事は1947年に生れた場合、1500年まで遡れば、6万人の先祖がいることになり、エリザベス女王がムハンマドの子孫であっても不思議なことではない。ヨーロッパの王室はみな親戚だという表現もあるくらい婚姻関係によって多くの血が混ざりあうようになった。アッバード朝にはアフリカのベルベル人や、ヌビア人、スーダン人も暮らしていたように、ヨーロッパには様々な人種の血が流れている。アフリカのハーフのメーガン妃が人種差別を受けたと告白したことがあったが、白人至上主義者たちはヨーロッパの系譜の歴史をわかっていないようだ。

アイキャッチ画像はエリザベス女王
https://www.vogue.co.uk/arts…/article/british-royals-dogs

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