12月8日は日本軍が真珠湾の米海軍基地を攻撃し、太平洋戦争の火ぶた切られた日だが、その記憶を未来の平和に結びつける動きもある。

https://asahi.gakujo.ne.jp/common_sense/morning_paper/detail/id=2015
2013年9月21日に真珠湾のアリゾナ記念館では、12歳で原爆症によって亡くなった佐々木禎子さんが折った鶴の展示開幕式が行われた。禎子さんの兄の雅弘さんと、真珠湾攻撃で撃沈された戦艦アリゾナの乗組員で生き残ったローレン・ブルーナーさんは「私たちは友人だ」と手を取りあい、平和への想いを新たにした。この展示を推進した人々には未来の平和を見据える心情があることは言うまでもない。

https://twitter.com/musoftolerance/status/1291454623983624192
アリゾナ記念館は、「Remember Pearl Harbor」という「卑怯な日本」の記憶という意味から、1991年真珠湾攻撃50周年の式典で先代ブッシュ大統領が「我々は融和へと進む準備はできている」と呼びかけたのが契機となり、「Pearl Harbor to Peace」へと大転換し、「融和」(reconciliation)を強調するようになった。
2歳の時に広島で被爆した佐々木禎子さんは1955年8月に白血病で12歳で亡くなったが、その2か月前に名古屋の高校生から折鶴を送られたのを契機に禎子さんをはじめ入院していた病院の患者たちによる折鶴の作成が始まった。禎子さんが折った鶴は1000羽を超えたという。
理不尽な戦争の中で原爆投下によって将来を奪われ、死と向き合いながらも、それでも折り鶴に希望を託した佐々木禎子さんのエピソードは中東イスラム世界や欧米でも広く知られている。アメリカでもワシントン州シアトルに、1990年8月6日にサダコ像がある平和公園がオープンし、カリフォルニア州サンタバーバラでは、「サダコ・ピース・ガーデン」がやはり1995年8月6日に、原爆投下50年を記念して開園された。
2008年にアメリカのマサチューセッツ州ウォルポールに住むオラ・マグワイアさんは、小学生たち禎子さんのエピソードを紹介しながら折り鶴のつくり方を教えた。その小学生がつくった折り鶴をダマスカスで開催されたスポーツ競技の際にイランのチームにプレゼントしたが、イランのチームメンバーたちは帰国後それを小学校の子どもたちにわけ与えた。当時はブッシュ政権とイランのアフマディネジャド政権の緊張が高まっていた時期で、マグワイアさんは両国の緊張を平和的に解決してほしいという願いを込めてイラン・チームに贈ったのだった。
イランでも禎子さんによる折り鶴は、2013年にイランのファーラビー映画財団に贈られ、イランの映画博物館に展示されている。米国とイランは対立しているが、両国民の間には禎子さんへの共感に相違するものがない。いつか禎子さんが媒介になって米国とイランの和解が実現することも祈りたい想いだ。
広島女学院大学の留学生アジダリ・アイスダさんがイラン・テヘランの小学校へ絵本「おりづるの旅」英語版を届け、それに応えて小学生たちが、折り鶴をつくり、それを広島の平和記念公園の原爆の子の像に捧げた。アイスダさんは、ペルシャ語で「平和を育てる」という意味の平和サークル「Rouyeshe Solh(ルーイェシェ・ソルフ)」を立ち上げ、イランの小学校で千羽鶴を製作しながら平和と協調の精神を教えるワークショップを行っている。

https://hsaa-studyabroad.jimdo.com/2015/10/04/%E3%81%B2%E3%82%8D%E3%81%97%E3%81%BE%E7%95%99%E5%AD%A6%E5%A4%A7%E4%BD%BF-%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BCvol-7-isooda-ajdari-%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%80-%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%83%80%E3%83%AA/
イランの芸術家のシャハーブ・モハンマディ氏は2010年に佐々木禎子さんを記念する刺繍を織って広島の平和記念資料館に贈った。モハンマディ氏は彼女の伝記を6歳の時に読み、それ以来佐々木さんの被爆や闘病体験のエピソードが頭から離れることはなかったという。モハンマディ氏の絨毯は禎子さんが72の国旗によって囲まれているというデザインになっている。イランの人々の禎子さんへの想いは、アメリカやイスラエルが訴えるようなイランを「危険な国」とする見方も一変するに違いない。
クウェート大学は湾岸戦争後に「平和の鳥プロジェクト」を起ち上げ、イラク軍の侵攻によって傷ついた子供たちの心をいやし、平和の尊さを教えるために学校で「サダコと折り鶴の物語」を教えるようになったが、禎子さんの話を聞いたクウェートの子どもたちは近隣のバーレーンにも出向いて彼女のストーリーを語ったこともあるという。
禎子さんは医療費の心配を親にかけたくなくて、自分の病気が重たいところを見せようとしないでせっせと折り鶴を製作したが、そうした他人を思いやる気持ちこそが平和に通ずると禎子さんの遺族は語っている。

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