12世紀ルネサンスに影響を与えたシチリア島・パレルモ

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Translation / 翻訳

 パレルモは、831年からイスラム勢力が進出し、878年にイスラム勢力に支配されるようになると、島の中心として発展するようになりました。パレルモはレバノン人の祖先であるフェニキア人の植民市として生まれ、それからローマ、ゲルマン、ビザンツの支配を受けました。アラブの指導者たちは島の先住民たちに信仰の自由を保障するなど、アラブ支配は寛容なもので、ユダヤ人たちも経済的な繁栄を享受しました。

パレルモ
パラティーナ礼拝堂
ノルマン王朝ルッジェーロ2世が8年の歳月をかけて造った礼拝堂


 アラブ人たちは農業と商業を発展させ、イスラム商人たちは、パレルモを地中海交易の中継地点として特に絹はこの島の特産となり、スカーフ、衣服、絨毯などともに、東方へ輸出され、東方からは亜麻、染料、胡椒、陶器などが輸入されていました。パレルモは、ビザンツ帝国のコンスタンティノープル(人口60万人)、スペインのコルドバ(人口45万人)に次ぐヨーロッパ第三の都市となり、35万人ほどの人口を抱えていたと推定されています。

パレルモのオペラハウスはヨーロッパ第三の規模を誇る


 ムスリムたちは、農業・商業による繁栄をシチリア島にもたらし、またイスラム文化は安寧のシンボルともなりました。それはシチリア島の地理的位置や、また豊かな土壌という自然条件によっても可能であり、特にレモンやオレンジといった柑橘類の栽培が盛んとなり、イスラム支配はローマ時代からのラティフンディウムと呼ばれる大地主制を廃し、小規模農家を多数つくったことも生産性を高めることになりました。ムスリムがこの島の支配を目指したのも、地理的や、良好な土壌などの背景があったからですが、イスラム文化は伝統的にあったキリスト教、ユダヤ教文化を吸収し、融合してさらなる発展を遂げました。

ノルマン・アラブ様式で有名なモンレアーレのドゥオーモ


 イスラム支配はおよそ200年続きましたが、1072年、ノルマン朝の都となると、さらに諸文明の融合が進み、12世紀ルネサンスの一つの中心地となりました。現在、パレルモにはアラブ風の建築物が見られますが、それはアラブ人たちによるものではなくて、イスラム文化の強い影響を受けたノルマン人たちによってつくられたものです。


 パレルモは、スペイン・トレドと並んでギリシア・ヘレニズム文化を、イスラム文化を介してヨーロッパに伝える中継地点ともなり、アラビア語・ギリシア語文献の翻訳活動が盛んに行われ、12世紀ルネサンスの誕生に大きく貢献しました。12世紀にパレルモのルッジェーロ2世の宮廷に仕えた地理学者のイドリースィー(1100?~65?)は、『世界各地を知ることを望む者の慰みの書』を1154年に完成させ、イスラム世界だけでなく、西欧の地理学にも大きな影響を与えました。イドリースィーの著書は、直径2メートルの純銀の円盤の上に書かれた世界地図の解説書として書かれたもので、彼はヨーロッパよりも先駆けて世界地図を作製していました。


 パレルモの大聖堂カテドラーレはルッジェーロ2世の孫であるグリエルモ2世(在位:1166~1189年)の統治時代、1185年に建てられましたが、入り口にはクルアーン(コーラン)のレリーフが見られます。


「まことに、おまえたちの主は神であり、天と地を6日で造りたもうたお方、玉座に登り、夜を昼をおおわしめ、昼をしてあわただしく夜を追わしめ、また日も月も星もご命令のままに駆使したもうお方である。まことに創造と命令とは神のものではないか。万有の主なる神に祝福あれ。」(クルアーン7章54節)

カテドラーレの入り口の柱に彫られたコーランの一節。意味はアルバム文中をご覧ください。

アイキャッチ画像は

ノルマン・アラブ様式で有名なモンレアーレのドゥオーモ
壁画にはキリストの奇跡の数々が描かれている

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