森鷗外が観た日露戦争と戦場の暴力

日本語記事
スポンサーリンク
Translation / 翻訳

 鴎外は日露戦争(1904年2月8日~1905年9月5日)では第二軍軍医部長として中国に従軍したが、従軍中に『うた日記』を書き上げ、詩歌とともに彼が観た戦争や戦場、中国社会の様子を記している。『うた日記』は5部構成で、新体詩、訳詩、長歌、短歌、俳句という形式の詩からなり、日付や場所が記されたものも少なくない。


 戦場における死のはかなさを表現して「死は易(やす)く 生は蠅(はえ)にぞ 悩みける」(<かりやのなごり>1904年7月)。(<かりやのなごり>は表題)と詠んだ。


 また、1904年5月の日本軍が総兵力の10%を失った南山の戦い際しては<唇の血>(04年5月27日)という表題と日付で、「徒歩兵の/顔色は 蒼然(そうぜん)として 目かがやき/咬(か)みしむる 下唇に 血にじめり」と詠んでいる。


 さらに、侵略者としての日本兵については「走りつつ 瓜(うり)盗んだる 馬卒かな」(表題:払子(ほっすの)賛(さん)、04年7月26日)と書き記した。日露戦争は日本とロシアとの戦争だが、戦場となったのは中国で、日露戦争は中国人に多大な迷惑をかけたことが『うた日記』には表れている。(成田龍一「軍医として赴いた戦地 多様な目線で、死や暴力記す」毎日新聞、21年2月14日)

日露戦争
中国人にとっては大変迷惑な戦争だったことでしょう
https://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/sensou_map.html


 『うた日記』の表題「罌粟(けし)、人糞(ひとくそ)」では兵士に強姦された中国娘が死のうと罌粟の花を吞み込んだが、娘の命を救おうとした母親は娘に人糞を食べさせ、吐き出させようとしたが、効果がなかった。鴎外は吐き薬を母親に与えて立ち去ったことが記されている。その後鴎外は『鼠坂(ねずみざか)』(1912年4月)で中国人娘をレイプした従軍記者が娘の幻影を見てショック死する様子を描いている。戦争の感想を部下から聞かれた鴎外は「いやしくも軍服を身に着けた軍人が戦争の感想など言えるはずがない。強いていうならば悲惨の極(きわみ)」と答えた。(『赤旗』22年7月8日)「罌粟、人糞」では「兵士」、「鼠坂」では「従軍記者」と、どこの国の人間かは特定されていない。当時の日本の軍社会の限界がうかがえるが、鴎外は制約がありながらも戦争や戦場、軍隊の矛盾をできる限りの形で表現した。現在、ウクライナなどで戦争があるが、戦争の悲惨さ、醜悪さは鴎外の時代と何ら変わりがない。


 ちなみに日本人が整腸剤として頻繁にもちいる「正露丸」は明治35年(1902年)、日露戦争開戦2年前に「忠勇征露丸」として発売されたが、その前身とも言うべきクレオソートを原料とする整腸剤は森鷗外(林太郎)によって軍薬として採用された。(大幸薬品のページより)


 ロシアを征伐するという意味をもつ「征露丸」は日露戦争当時、日本人の間で広く受け入れられ、使用されたことだろう。衛生状態がよくない外地の戦場では、病死する兵士たちも少なくなかった。それから1941年4月に日ソ不可侵条約が成立しても「征露丸」という名称に変わりなく、ようやく変更があったのは戦後の1949年のことで、「忠勇征露丸」から現在の「正露丸」となった。


 正露丸の主原料となるクレオソートは古代エジプトでミイラの保存用として用いられていた。エジプトのクレオソートがイタリアにもたらされたのは、フィレンツェなどイタリア諸都市とエジプトのマムルーク朝との交易であったことは想像に難くない。Britannica Concise Encyclopediaでも中東イスラム世界でクレオソートは医薬用として広く用いられていたことが記されている。

アイキャッチ画像は 森鷗外の医学資料を発見 医者の心構え説く 津和野の記念館 | 毎日新聞 (mainichi.jp) より

日本語記事
miyataosamuをフォローする
Follow by E-mail / ブログをメールでフォロー

If you want to follow this blog, enter your e-mail address and click the Follow button.
メールアドレスを入力してフォローすることで、新着記事のお知らせを受取れるようになります。

スポンサーリンク
宮田律の中東イスラム世界と日本、国際社会

コメント

タイトルとURLをコピーしました