イタリアのナポリのエドゥアルド・カスタルド氏による「ベツレヘムにようこそ」という壁画がソーシャルネットなどを通じて話題を呼んだ。パレスチナ人の労働者たちがイスラエルのチェックポイントでイスラエル兵の脇に並んでいる様子が描かれたものだが、パレスチナのイスラエルへの従属、パレスチナ人たちの苦悩が描かれているようだ。カスタルド氏はパレスチナでフォト・ジャーナリストとして活動経験があり、ナポリにあるカスタルド氏によるもう一つの壁画は、壁をよじ登るイスラエル兵たちにバケツで水をかける女性の姿を描いたものだ。壁画によってあらゆる形態の不義に対する反発や、人権、平等、正義を求めるパレスチナ人への共感を表そうとしたという。(「Scoop World」2021年5月17日)

エドゥアルド・カスタルド氏作
https://ilbuonodelbello.it/eduardo-castaldo-edie-un-napoletano-in-medioriente/?fbclid=IwAR1R6eNqpRTb8G6nCGNDd4izHxKs8QYan9tJceEHpflmc8aZI_7SIHoXb0I

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イタリア南部のナポリは1943年9月にナチス・ドイツに対する「ナポリの4日間」と呼ばれる激しい民衆蜂起があったことなどナチス支配に対する抵抗のシンボルの都市とも見られている。また、ナポリは歴史的に見てもアラブと縁が深い都市だ。
ナポリは850年にチュニジアを拠点とするアグラブ朝(800~909年)に征服され、ゲルマン系のランゴバルド王国の支配を経た後に、1137年にシチリア島を支配していたノルマン人の統治を受けるようになった。
1224年にナポリ大学を創設した神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世(1194~1250年)は、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世と、シチリア王女コンスタンツェとの間に生まれた。3歳にしてシチリア王を継承し、多様な文化に触れながら、ラテン語、ギリシア語、アラビア語など6カ国語に通暁するようになった。彼はイスラム支配があったシチリア島でアラビア科学の影響を受け、身につけた解剖学の知識から人体解剖の経験もあったと言われている。ナポリ大学はヨーロッパで最初の国立大学で、ボローニャ大学などイタリア北部の教皇の強い影響下にある大学と競合する目的があった。
フリードリヒ2世の支配したシチリア王国は「学者の共和国(王国ではない)」と形容され、自然科学、哲学、詩作、数学、翻訳などヨーロッパ学芸の中心となった。伝統的な権威に従うことなく、自由な学風が学術研究のいっそうの発展をもたらした。アラビア語にも堪能なフリードリヒ2世は、アラブ文化に強い関心を抱いていた。
フリードリヒ2世は、第5回十字軍遠征途上で引き返したことでローマ教皇に1228年に破門されたが、同年、第6回十字軍を主導して地中海沿岸の町アッコに上陸し、ジャッファに進んだ。アイユーブ朝のスルタン・アル・カーミル(1180~1238年)との間で書簡のやりとりをすると、イスラム文化や科学に精通するフリードリヒ2世の学識に驚嘆の念と敬意をもったスルタンは、フリードリヒ2世との間に1229年にジャッファ条約を結んだ。
この条約は、武力ではなく、外交で成立した、当時とすればユニークなもので、エルサレムとベツレヘム、そして地中海に至る回廊はエルサレム王国に割譲され、岩のドーム、アル・アクサー・モスクなどイスラムの聖地は、ムスリム支配の下に置かれることになった。またエルサレムのムスリムたちはその家屋、財産を維持でき、キリスト教、イスラムではそれぞれの独自の行政、司法制度をもつことになった。
イスラエルでは極右勢力を含むネタニヤフ政権が再び成立したが、イスラエル国民はナポリをはじめとするイタリア南部で宗教の共存を実現し、また外交によって中東和平を実現させたフリードリヒ2世の精神に学ぶべきだろう。
アイキャッチ画像は
パレスチナ人の労働者たちがイスラエルのチェックポイントでイスラエル兵の脇に並んでいる様子が描かれた壁画
エドゥアルド・カスタルド氏作
https://www.scoop.co.nz/stories/WO2105/S00218/anti-zionist-naples-award-winning-italian-artist-speaks-about-palestine-and-why-he-quit-photojournalism.htm?fbclid=IwAR1rjqXjFuelSkIudDWY6DzlpPVEGKU836WhzKmKdaLZl3Ca0GqOwdOQuZw

キリスト教会と岩のドーム
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