パレスチナ人の「ナクバ(大災厄)」をもたらした19世紀ヨーロッパ植民地主義

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 5月15日は、イスラエル建国によってパレスチナ人たちが難民になったことを嘆く「ナクバ(大災厄)」の日であった。

 1948年には140万人のパレスチナ人たちが1、300の町村に住んでいたが、イスラエル建国によって80万人が故地から追われた。イスラエルは774の町村を支配するようになり、531のパレスチナ人の町村を破壊した。2016年末までにヨルダン川西岸、ガザ、イスラエルを合わせた「歴史的パレスチナ」に住むパレスチナ人たちは641万人余りとなったが、そのうちの42%が難民の生活を強いられている。イスラエルの経済封鎖を受けるガザは世界で一番人口稠密なところで、1平方キロあたりに実に5、239人が住んでいる。

1948年4月、パレスチナ人の虐殺が行われたデイル・ヤースィン村

 イギリスでは、1809年に「ユダヤ人にキリスト教を広めるロンドン協会(the London Society for Promoting Christianity Amongst the Jews)」が設立された。イギリスの聖公会は、イギリスのユダヤ人たちをキリスト教に改宗させ、さらに彼らをパレスチナに送り込んでパレスチナのユダヤ人たちを改宗することを目論んだ。「ロンドン協会」はイギリスの政治家や貴族たちの支援を受けるようになり、1838年にイギリス領事館がパレスチナに設置され、また1842年にプロイセンと共同でエルサレムに主教区も置かれた。パレスチナ初代主教は、マイケル・ソロモン・アレキサンダーというドイツ人改宗者で、改宗する前はユダヤ教のラビであった。イギリスは農業活動のための土地を購入し、ユダヤ人たちを農業で雇用するための組織を起ち上げていった。

 「ロンドン協会」が考えたのは、ユダヤ人たちの生活を保障することによって、オスマン帝国のユダヤ人たちがパレスチナに集まるようになり、また彼らをキリスト教に改宗させることはキリストの時代のパレスチナに似た社会状況をもたらし、キリストの復活が早まることになるというものだった。また、イギリスがパレスチナに影響を及ぼすことは、イギリスの植民地である「インドへの道」も確保するという目的にもかなうものだった。

 1866年から1868年にかけて同様な考えをするアメリカの宣教師ジョージ・アダムズ(1811~80年)をはじめとするモルモン教徒であった人々がユダヤ人たちをキリスト教に改宗するための植民地をジャッファに創設した。この事業は、ドイツの「テンプラーズ(Templers)」と呼ばれるプロテスタントの集団によって継承されていったが、「テンプラーズ」は、パレスチナはキリストが再臨する土地と信じていた。

エルサレム旧市街

 これらの考えは現在のアメリカの福音派の考えとして受け継がれ、トランプ政権では特にアメリカのパレスチナ政策に大きな影響を及ぼした。パレスチナで「ナクバ」が固定したのは、キリストの再臨を待望するという狂信的なキリスト教徒たちのエゴも重大な背景となっている。

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