ウクライナに侵攻して欧米諸国などから経済制裁を受けてもプーチン大統領へのロシア国民の支持は一向に低下する様子が見られない。ロシア政府系の「世論基金」が6月17日から19日にかけてロシア全土、1500人を対象に行った世論調査では、プーチン大統領を「信任する」という回答が80%になった。ウクライナ侵攻後の調査では、4月24日のものと並んで最高だった。(共同)
侵攻によって求心力を高めるプーチン大統領を見て、第二次エチオピア戦争をめぐるイタリア・ムッソリーニの政策を思い出した。19世紀後半、ヨーロッパ諸国によるアフリカ分割が進むと、イタリアもアフリカに関心をもち、1890年にマッサワ港を首都とするエリトリア植民地を宣言した。エリトリアは、紅海の「赤」を意味するラテン語の「エリュトラウム」からとられたイタリア名である。

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イタリアは、さらにエチオピア本国の領有を目指したが、1896年にアドワの戦いで敗れて断念した。しかし、1925年に成立したムッソリーニ政権は、再びエチオピアに関心をもつようになり、1934年にエチオピア・エリトリア国境で銃撃戦を起こすなど、イタリアは意図的にエチオピアを挑発していった。さらにイタリアは、1908年に英仏に支配権を認めさせたイタリア領ソマリランドからエチオピアに入り組んで道路を建設し、エチオピア東北部にあるワルワルに要塞を築き、1934年12月5日から7日にかけて、ワルワル周辺でイタリア植民地軍とエチオピアの軍事的衝突が発生し、イタリア軍とソマリ傭兵50人が死亡、またエチオピア軍も107人が犠牲となった。

シミエン国立公園
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エチオピア領内で起こった事件であったので、イタリアの挑発姿勢は明らかであったが、イタリアの国内世論は反エチオピアに傾き、1935年イタリアはエチオピアに毒ガスをも用いる侵攻を開始して、36年5月5日に首都アジスアベバを占領した。国際連盟はイタリアの侵攻に対する経済制裁を科したが、戦略物資である石油は除外され、またイギリスが所有するスエズ運河の航行も認められてエチオピア侵攻に利用されるなど、国際連盟はちぐはぐな対応に終始した。
当時、エチオピアは日本にとって重要な貿易相手であり、エチオピアの全輸入品のうち2分の1は日本からだった(衣類用綿布、人絹、家庭用品、陶器、ガラス器など)。日本では頭山満が代表を務める「エチオピア問題懇談会」がイタリア軍撤退を要求するなど、エチオピア同情論が強まったが、イタリアはエチオピア占領をめぐって英仏と対立し、また国際連盟を脱退するなど国際的孤立を深めたことによって日本に接近し、1936年に日独伊三国防共協定が成立した。このあたりの経緯はロシアがやはり経済制裁を受け、国際的に孤立する北朝鮮やイラン、またアメリカと競合する中国に接近する姿勢と酷似している。
アイキャッチ画像はムッソリーニへの大衆の熱狂


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