イスラム世界の人々が広島の街を見て驚くのは、彼らの脳裏や印象にある原爆投下直後の広島の街と、現在の広島の街並みのギャップだ。以前、パキスタン人の一行を案内したら、「ここが本当に何もなくなったところか」と驚嘆していた。一行に被爆体験を語った小倉桂子さんは「私たちは復興に本当に努力しました」と述べた。

https://hiroshimaforpeace.com/hiroshima75/history-hiroshima/
2012年7月27日『ヒロシマ平和メディアセンター』の記事に「復興の風 1954年 広島市中心部 街に活気 絵筆軽やか:比治山(広島市南区)から西を望み、少年は絵筆を走らせる。9年前、原爆で焼き尽くされた街に、再び家が並んできた。・・・家族や友人を失い、心身共に傷ついた人々は、希望を捨てずに街を再建した。電車やバスの交通網を整え、商店街に活気を取り戻した。一人一人の営みが、国際平和文化都市の礎となった。」と写真の説明があった。
その1954年2月、マリリン・モンローとジョー・ディマジオは、朝鮮戦争の慰問を兼ねて日本を訪問した際に広島を訪れ、「原爆記念館」(現在の平和記念資料館)を見学し、さらに近くの比治山にあった日米合同の放射線影響研究所で、説明を受けた。原爆記念館でモンローはあまりの悲惨さにため息を繰り返したと伝えられているが、広島の街は冒頭に述べたように復興への歩みを着実に遂げていた。

広島の復興が早かったのは、広島の人々の努力とともに、日本が平和国家になったという要因が大きいだろう。5日、イスラエル軍はガザを空爆し、15人超が犠牲になった。復興しては破壊を繰り返すというのでは、いつまで経っても社会の再建は実現しない。ガザはイスラエルとガザの武装集団の衝突によってイスラエルが燃料の搬入を認めず、唯一ある発電所も停止せざるを得ない状態に追い込まれている。
2010年代にアフガニスタンを訪問した時、カブールの警官は「日本の復興はすばらしい。アフガニスタンはタリバン政権が倒れて10年以上経っても道路はボコボコのこのザマだ。」と語っていた。やはり2013年に日本を訪問したアフガン人ジャーナリストは東京の銀座を歩きながら、「日本の女の子たちは街を実に生き生きと歩いている」と語っていた。日本の戦後復興はイスラム世界の人々からは称賛の的となっている。
「ユニタール(国連訓練調査研究所)」は、平和創造を人間の安全保障(教育、福祉、環境、食料など)の観点から考える、広島に設立された国連機関だが、原爆投下という惨禍を経た広島で活動している意義は大きい。

グテレス国連総長、核禁止条約に「希望の兆し」 広島平和式典で言及
https://mainichi.jp/articles/20220806/k00/00m/040/081000c
ユニタール特別顧問であったイラン人のナスリーン・アジミさんはユニタールがアフガニスタン人を受け入れていることについて「重要なことは、アフガニスタンの人々が、日本を大変称賛していることだ。彼らは日本を、政治的にも文化的にも、欧米のほとんどの同盟国よりもはるかに好意的に見ている。(中略)私は、世界平和や核兵器廃絶を願う広島がよって立つ道徳的な立場や、廃虚から復興した街並みに、アフガニスタン人ほど目に見えて影響を受けているグループを見たことがない。原爆資料館の見学後や被爆者の証言を聴いた後で、彼らがよく口にする言葉がある。『もし広島が復興できたのなら、アフガニスタンだってできる』と。憎しみよりも復興を優先し、『許しても忘れない』という広島市民の努力と精神は、過去の憎しみに長くとらわれた国にとって、計り知れない意味を有しているのである。」と語っている。http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=30788
原爆を投下したアメリカを憎まず、復興にまい進した広島の人々は過激派の活動など暴力の連鎖に苦しむ中東イスラム世界、あるいは世界中の人々に寛容が平和や社会の安定に不可欠であることを示している。
アイキャッチ画像は
広島「原爆記念館」のマリリン・モンローとジョー・ディマジオ(1954年2月)
https://www.pinterest.nz/pin/533606255846473705/
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