多様性と平和を訴え、アメリカの戦争の中心に人種主義を意識したチャンピオン -モハメド・アリ

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 2021年の東京オリンピックの理念は「多様性と調和」だった。人種、肌の色、性別、性的指向などの相違を受け容れて互いに認めることで社会は進歩していくということを訴えた。テニスの大坂なおみ選手が聖火の最終ランナーに選ばれたのも、大会理念を表していた。

 この演出で、1996年の聖火最終ランナーとなったボクサーのモハメド・アリのことを思い出した人は少なくないだろう。パーキンソン病で手が震えながらも、聖火台に点火したアリの姿は世界に、彼のボクサーとしての伝説とともに、人種差別を省みるアメリカの姿勢を訴えたものでもあった。その姿には尊厳と気高さ、また力強さを感じた。

 アリは、その自伝によれば、1960年、18歳の時にローマ・オリンピックで金メダルを獲得し、帰国したものの、友人とともにレストランに入ると、ここは白人専用だ、黒人の来るところではないと追い出された。オリンピックの金メダルを見せて自らを名乗っても取り付く島もなかった。帰り道にアリはオハイオ川に金メダルを投げ捨てた。

モハメド・アリ
1988年シカゴのパレスチナ支援デモで
https://9gag.com/gag/amvveb2

 アリはアメリカの戦争の中心に人種主義が存在することを強く意識していた。第二次世界大戦後のアメリカの戦争はベトナム、カンボジア、ニカラグア、シリア、リビアなど、白人以外の人種の国に限定されてきた。アリはベトナム戦争について「白人が黄色人種と戦うために黒人を送り、赤い人々(=インディアン)から奪った土地を守ろうとしている」と述べ、「ベトコンと戦う理由はない。ベトコンは私を『ニガー』と呼んだことはない。」と徴兵を忌避した。1964年にイスラムに改宗し、カシアス・クレイからモハメド・アリと名乗るようになった。

 アリは1974年にレバノン・ベイルートを訪れ、1947年から48年にかけてのイスラエル建国によって故地を逃れてきたパレスチナ難民キャンプを訪問した。難民キャンプ訪問後、アリは「私とアメリカのムスリムの名においてパレスチナ人の故地解放のための闘争を支持することを宣言する」と述べた。当時、アメリカで著名人がイスラエルを明確に批判することはきわめて稀なことだった。 2015年12月にアメリカ大統領選挙で共和党の指名争いに参加するようになったドナルド・トランプが、アメリカへのムスリム移民の禁止を唱え、スポーツ界のヒーローにはムスリムはいないと述べると、アリはイスラムには無辜の人を殺害する正当性がないと述べ、ジハーディスト(=過激派)はイスラムの本質に反していると述べた。

モハメド・アリ
自らの故地を解放し、シオニストの侵略者を追放するパレスチナ人の闘争を支援する
https://twitter.com/happy_arab/status/739162799721447424

 アリの反戦と反人種主義は、彼の生涯をかけての活動テーマとなったが、それがアメリカで評価されていたことは、アトランタ・オリンピックの最終ランナーとなったことでも明らかだった。

 モハメド・アリはアメリカで評価されたが、日本ではオリンピック最終ランナーの大坂なおみを「日の丸の下の星条旗を見せろ。 お前は日本国民ではないし、私欲のために日本国を利用した貴様を許さない」などと中傷する書き込みが目立つようになった。今回のオリンピックでは、メダリストの選手たちを中傷する書き込みが多いそうだが、「多様性と調和」は誹謗や中傷を本質的に否定するもので、モハメド・アリも求めた普遍的な価値観だ。

アイキャッチ画像はアトランタ五輪
聖火台に点火するモハメド・アリ
https://cool-hira.hatenablog.com/entry/20180611/1528664552

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