古代オリエント史家・三笠宮崇仁親王が訴えたかったもの

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Translation / 翻訳

 三笠宮崇仁親王(1915~2016年)は古代オリエント史研究者として、三鷹市大沢の中近東文化センターの設立に尽力するなど日本のオリエント学界をリードした。社会発展の歴史を知らなければ、人類は存続できないと語っていたという。古代オリエントへの関心は、陸軍軍人として戦争の悲惨さを自ら体験したことによるのかもしれない。憲法9条についても「よいものだ」と評し、紀元節の復活については歴史的根拠がないと反対した。科学的な歴史認識の立場に立っていたことは、大和朝廷は北東アジアにいた騎馬民族の征服によるものと唱えた考古学者の江上波夫氏とも親交があったことからもうかがえる。

トルコ
アンカラ
アナトリア文明博物館
http://www.dimitrastasinopoulou.com/portfolio/turkey/turkey-central-anatolia-ankara?fbclid=IwAR1ANfLg_t4UVPTgqGlUXnhzgAQHavDF6L_2eXYzNwn0xNQ1ThmhF_3D9_s


 中近東文化センターは1985年からトルコで発掘調査を始め、三笠宮さまもトルコの研究者たちと交流を深め、日本とトルコの親善にも貢献した。


 古代地中海東岸に栄えたフェニキア商人たちは、エジプト、バビロニア、クレタの影響の下に、紀元前12世紀頃から現在のレバノンの地中海沿岸都市シドン(サイダ)・ティルス(スール)を中心としてイスパニア(スペイン)にまで進出し、杉・銅・干し魚・染料などを輸出し、琥珀・錫を輸入して地中海貿易で活躍した。


 古代イランを中心に栄えたアケメネス朝(紀元前550年 ~ 紀元前330年)は「王の道」という交通網をつくり、通商に力を入れ、それが後に「シルクロード」へと発展していくことになるが、またアケメネス朝は帝国を20の州にわけてサトラップという行政官の下に緩やかな自治を認めた。
 こうした古代オリエントの通商や自治制度は、イスラム帝国やオスマン帝国に引き継がれ、オリエントでは共存の伝統ができ上っていった。

トルコ
アンカラ
アナトリア文明博物館
http://www.dimitrastasinopoulou.com/portfolio/turkey/turkey-central-anatolia-ankara?fbclid=IwAR1ANfLg_t4UVPTgqGlUXnhzgAQHavDF6L_2eXYzNwn0xNQ1ThmhF_3D9_s


 このシステムを壊したのはヨーロッパの植民地主義やナショナリズムの考えだったが、三笠宮さまも教え込まれた戦前の日本の「正義の戦争」とは、共存を壊すヨーロッパ植民地主義の流儀を踏襲するものだったことに気づいたのかもしれない。「現在日本人、特に軍人に欠如しているものは『内省』と『謙譲』」と述べ、軍部に猛省を促したというが(「時事通信」の記事)、その背景には古代オリエントの人々のような自省の精神に日本人が欠けていたことを痛感したこともあるだろう。現在の日本人も知っておきたい教訓である。
アイキャッチ画像は東京芸術大美術学部の客員教授として「古代オリエント美術史」の特別講義をされる三笠宮さま=1985年12月撮影、東京都台東区
http://headlines.yahoo.co.jp/hl…

レバノン
シドン(サイダ)
https://c7.staticflickr.com/…/8357260230_498d9eabc6_b.jpg

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