共存の地中海の印刷技術と抵抗のナショナリズム

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Translation / 翻訳

 イスラム世界では、活版の印刷技術は1492年にレコンキスタ(「国土回復」)でスペインを逐われたユダヤ人たちによってオスマン帝国にもたらされ、スルタンの許可を得て印刷所がイスタンブールに設立された。アラビア文字を用いるトルコ語の印刷所は1727年にイブラヒム・ミュテフェッリカ(1674~1745年)とメフメト・サイートによっておこされた。ミュテフェッリカはハンガリーの貧しいカルヴァン派の家に生まれ、ハプスブルク家支配の抑圧に抵抗する反乱に加わり、その失敗後にオスマン帝国に亡命し、イスラムに改宗した。印刷所の事例を見てもオスマン帝国が当時の異教徒の難民たちを寛容に受け入れて活動させていたかがわかるだろう。


 活版印刷が広まる以前、イスラム世界では書物の形態はもっぱら手稿本であった。特に神からの啓示を記したコーラン(クルアーン)は美しく書かなければならないという書家に与えられた使命から書道が発達した。


 ヨーロッパで生まれたナショナリズムの考えが世界で生まれ、各国が軍事力を競う以前地中海世界のように共存の形態は世界各地で多々見られた。ペルーの作家のマリオ・バルガス・リョサは、「読書と虚構を褒め称えて」と題するノーベル文学賞受賞演説(2010年12月8日)で、「宗教と並び、ナショナリズムもまた、先の二つの大戦や中東の血なまぐさい現況のように、歴史上もっとも最悪の流血事件を引き起こす原因となってきました。」と述べている。


 ナショナリズムは第二次世界大戦後になると植民地解放のイデオロギーともなった。アルジェリア独立戦争のイデオローグの一人であるフランツ・ファノン(1925~61年)は、1953年から56年にかけてフランス領であったアルジェリアのブリダ・ジョアンヴィル病院で精神科医として勤務したが、ファノンにとって衝撃的であったのは、フランス軍・警察の拷問によって精神に障害をもつようになり、廃人同然となったアルジェリア人たちの惨状であった。彼はアルジェリア人たちに同情し、1956年に病院の職を辞して、アルジェリア独立運動の救援活動に当たるとともに、理論的にも指導的立場になっていった。彼は、独立戦争を担ったFLN(民族解放戦線)の機関紙である「エル・ムジャーヒド(聖なる戦士)」に書き続けた。「すべての反乱をアフリカ全土へ」と唱え、1958年8月12日付の「エル・ムジャーヒド」では「アフリカの男よ!アフリカの女よ!武器を持て!フランス植民地主義に死を!」と訴えた。(松岡正剛「千夜千冊」/フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』より)

アメリカの対テロ戦争に関係するのは世界76カ国に及ぶ
http://warisacrime.org/…/tomgram-engelhardt-seeing-our…/


 フランスはファノンを「テロリスト」と形容するようになったが、そのテロリストの理論をつくらせたのはフランスのアルジェリア人に対する過酷な弾圧であった。現在、アメリカが戦争に関与する国は世界76カ国に及び、世界全体の国の数の39%にも及ぶ。アメリカの軍事行動は「テロリスト」を確実に増やしているに違いないが、アメリカとの集団的自衛権、自衛隊の活動範囲を広げる可能性は大いにありうるだろう。
アイキャッチ画像はマフムード・ファルシュチヤーンの細密画
https://www.pinterest.jp/pin/531424824757546288/

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