戦争に反対したウクライナ市民 ―ペルシャ語起源の「マイダーン」は平和・繁栄の象徴

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Translation / 翻訳

 ウクライナの首都キーウにある「独立広場」はウクライナ語で「マイダーン・ネザレージュノスチ」というが、2014年にこの広場から発生した運動「ユーロマイダーン(ヨーロッパのマイダーン)」が推進する「マイダーン(広場)革命」によって、親ロシアで、またトランスペアレンシー・インターナショナルによって世界一腐敗した人物の一人と形容されたヤヌコーヴィチ大統領は退陣を余儀なくされた。ヤヌコーヴィチ氏の私邸の敷地は東京ディズニーランドの3倍近い約140ヘクタールもあり、敷地内にはゴルフ場やテニスコート、さらにはプライベートの動物園まであった。

ウクライナの女性
https://www.xoer.cc/1976506


 「マイダーン」という言葉は、ロシアがウクライナから併合したクリミア半島などを支配したオスマン帝国の言語であるトルコ語から借用されたものだが、元々はペルシャ語を起源するとする言葉だ。遊牧のトルコ系民族がペルシャ帝国との商業など不断の交流を介してトルコ語の言葉になった。ペルシャ(イラン)のメイダーンはイスファハーンの「イマームの広場(メイダーネ・イマーム)」に見られるように、商業や日々の経済の中心で、イスファハーンを首都としたサファヴィー朝時代は、イスファハーンが「世界の半分」と形容されたように、メイダーンは平和と繁栄の象徴だった。遊牧民のトルコ人たち、またオスマン帝国の商人たちもシルクロードの通商でペルシャのメイダーンに頻繁に足を踏み入れたことだろう。

イラン・イスファハーンのメイダーン


 メイダーンを介する商業はケテルビーの楽曲「ペルシャの市場にて」ののどかな情景からも連想できるように、戦争はふさわしくない。メイダーンは現代ではウクライナのマイダン革命や、また2011年のエジプト革命がカイロのタハリール広場(ミーダーン・アル・タフリール:アラビア語にも「メイダーン」がペルシャ語起源の言葉としてある)で激しく展開されたように、政治変動の舞台となっているが、歴史的には経済交流の場であり、それが機能しなかったのは戦争や飢饉など混乱の時代であった。メイダーンを拠点とする交易によって広い地理的範囲での交流が生まれ、アラブ人やトルコ人たちは知識や学問をもその交流の中で蓄積していき、文化を共有していった。「メイダーン」という言葉自体がその一例でもある。


 親ロのヤヌコーヴィチ氏がマイダン革命で辞任を余儀なくされ、ロシアに逃亡せざるを得なかったように、プーチン大統領のウクライナをめぐる意図はウクライナの多くの人々からは拒絶されている。プーチン大統領がウクライナに拘泥する姿勢は、一種パラノイア的でもあり、近い過去の歴史にも学んでいないように思う。

アイキャッチ画像はウクライナ
マイダーン革命
2014年
https://www.brookings.edu/blog/order-from-chaos/2019/02/22/ukraine-looking-forward-five-years-after-the-maidan-revolution/?fbclid=IwAR3TQAxJxXUMfUk7gFlIFSIfZuuWbhOzRqZqShduGrJRFAPOgnN3aKU6gMU

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