「アラビアのロレンス」とイギリスがもたらした中東地域の紛争・混迷

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Translation / 翻訳

 オスマン帝国は1908年から青年トルコ党政権となり、中東集権化していった。ヒジャーズ鉄道はアラビア半島にまで延び、帝国政府はアラブ地域への干渉を強めていった。メッカのシャリーフ(「市長」のようなもの)であったシャリーフ・フセイン(フサイン)は、イスラムの預言者ムハンマドの後継者を自任していたが、青年トルコ党の政権以前は比較的多くの自治を享受していた。フセインは現在のイスラエル、パレスチナ、レバノン、シリア、イラク、サウジアラビアを包摂するアラブ国家の樹立を夢想していた。

映画「アラビアのロレンス」より
http://edition.cnn.com/2012/11/23/world/meast/lawrence-of-arabia-jordan-anniversary/?fbclid=IwAR326idIJa0lQuLQsF-wV_YlpqQHkGBWfgED1CJ4_i6bQrK3UkseQ9gcGrk


 イギリスは、フセインにアラブ王国建設の言質を与え、またロシアにエルサレムを、フランスに大シリア(シリア・レバノン)を、さらにシオニストたちにはパレスチナに「郷土」を与える約束をした。まさにオーバーブッキングである。こうした「約束」は大英帝国政府の様々の異なる機関によって行われた。


 「アラビアのロレンス」こと、T.E.ロレンスはフセインの息子のファイサルとアブドゥッラー(アブドラ)に率いられたアラブ軍に随行した情報将校の一人であった。ファイサルはイスタンブールという都会で教育を受けた人物で、映画に描かれたような粗野な感じがする部族のリーダーでは決してなかった。彼は1909年から12年までの間、オスマン帝国が民主的体裁をとった際にジェッダ選出の国会議員でもあった。

参考になるかと思います。


 ロレンスは、アラブの反乱がイギリスの戦争目的であり、シリアがフランスに与えられることも知っていた。トルコ軍の捕虜となったロレンスは解放される前にトルコ軍将校にレイプされる。映画の中でトルコ軍に報復するピーター・オトゥールのロレンスはサド的な表情を演じている。

アラブ軍によって破壊されたヒジャーズ鉄道(イメージ)
https://notsohairyjerry.wordpress.com/2008/06/23/hijaz-railway-saudia-arabia-evidence-of-arab-uprising-1916-1918/?fbclid=IwAR01NqQRghzUAa22KdquXXvsqWylOnjNQl_9ZPbYcdyRGVHet8vdKJn-Fbo


 ファイサルはケマル・アタチュルクに率いられたトルコ軍をシリアから駆逐し、1918年から20年の間、「シリア王国」を実現した(公式に国王を宣言したのは1920年3月)。しかし、フランスとの戦闘に敗れ、1920年7月にシリアから追い出されることになった。わずかな罪悪感を覚えたイギリスは自らの委任統治領であったイラクの国王にファイサルを据えた。しかし、このイラク王国は1958年の軍事クーデターで崩壊する。イギリスはイラクでスンニ派の少数派支配を確立したが、それが現在のスンニ派・シーア派の内戦の遠因ともなっている。イギリスの「オーバーブッキング」がパレスチナ問題の悲劇をつくり出したことは周知の通りである。
アイキャッチ画像は映画「アラビアのロレンス」より
http://www.nola.com/…/lawrence_of_arabi_returns_to_t.html

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