伝統的井戸掘り技術で世界の飢えと渇きを救おうとした日本人

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Translation / 翻訳

アフガニスタンやアフリカのサハラ南縁地域(サーヘル地帯)では干ばつで、水不足が伝えらえるようになっている。世界の渇きに日本の伝統的手堀の井戸で挑戦した日本人がいる。農学者の中田正一氏(1906~1991年)は「飢えと渇きに苦しむ人々に最も必要な命の糧は水だ!」と考え、世界の困窮する人々に命の糧である水を与えようとした。「助けることは助けられること」をモットーに井戸掘りの活動を続けた。

中田正一氏
https://kobitonoie.exblog.jp/6698399/

 戦後、農林省に入省し、1963年にアフガニスタンに派遣されて農業指導に取り組み、農業技術カリキュラムを小・中学校に普及することに貢献した。

 1967年に農業を中心とした国際協力を行う人材を育てることを目標に「国際協力会」(後の「風の学校」)を設立し、自らの志を将来の世代に伝えることを考える。

 1974年に農林省を退職し、1975年に独立してから間もないバングラデシュに農業支援のチームの指導者として赴任した。これはバングラデシュ政府の要請によって日本政府が派遣したものだが、中田氏は砂防や飼料に適したイピルイピルの木を植林し、その普及に成功した。

 中田氏が伝えたのは、伝承される古式の井戸掘り技術である「上総掘り」を中心に、風車や揚水技術などの生活基盤の整備技術と農業技術を世界各地に伝えようとした。モノやカネに頼らず、現地の人々と協力して危機を乗り越えようとし、物資がない発展途上国でも応用できる井戸堀の技術の教化や難民などの困難な生活状態の改善に努めた。

上総掘り 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%B7%8F%E6%8E%98%E3%82%8A

 最初の海外での活動の地であるアフガニスタンには愛着があったようで、ソ連軍が撤退した1989年にモンゴル系のハザラ人に扮して3度潜入を試みて失敗したこともあったが、1991年にアフガニスタンでの農業支援から帰国した後、脳腫瘍に倒れて他界した。

「モノやカネは外から調達できますが、水は現地になければ意味がありません。飢えと渇きに苦しむ人々に最も必要な命の糧は、水なんです」と訴え続けた。

http://www.gospelhiroba.com/gqfamily/charity.html

「風の学校」の教え子たちと各地をバングラデシュやソマリアなど各地を回り、井戸を掘り続けた。その井戸掘りの技術は、千葉県などに伝わる「上総掘り」であり、風車や揚水技術などの途上国の基本的な生活インフラ整備と農業技術の教化を「風の学校」の教え子たちとともに途上国に行っていった。

 「わたしは『愛』の反対は『憎しみ』ではなく『無関心』だと思うんです。自分さえ豊かに生活できれば、他はどうであろうと一切無関心で、飽食を重ねてマネーゲームに興じている時代――これは一番悪い社会だと思う」と日本の社会に警鐘を鳴らし続けた。

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