カズオ・イシグロ氏と長崎の記憶

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Translation / 翻訳

 今年のノーベル文学賞は、ノルウェーの劇作家、ヨン・フォッセ氏に与えられることになったが、2017年にノーベル文学賞を受賞した日系イギリス人作家のカズオ・イシグロ氏は1954年、長崎で生まれ、5歳の時に海洋学者の父親とともにイギリスに移住した。1982年に被爆後の長崎で結婚した女性を主人公にする「遠い山なみの光」で王立文学協会賞を受賞した。

 「ガーディアン」の記事(2005年2月19日)に渡英後の少年時代の記憶が紹介されているが、戦争敵国であったイギリスの隣人たちは戦後15年であったにもかかわらず、熱心に教会に通うイシグロ家の人々に信じられないほど優しく、親切にしてくれたそうだ。母親のシズコさんは18歳の時に長崎で被爆体験がある。戦争をめぐって記憶に残るのは小学校で戦争ゲームに興じていると、日本軍ではなく、ドイツ軍がいつも敵であったこと、また母親が日本軍の捕虜であった、ある隣人に冷たくあしらわれたことが愉快でない記憶として残っているという。元捕虜の隣人はそれまで家族に対して快く接していたが、カズオ氏の母を見ると捕虜時代の記憶が突如甦り、そのような行動に出たようだ。彼の奥さんは直ちに謝罪した。

(カズオ・イシグロ氏は)映画好きで、小津安二郎の影響を受けたとインタビューに答えている。「浮世の画家」の主人公の老画家は、小津映画の名優・笠智衆を浮かべて執筆したという。
http://digital.asahi.com/articles/ASKB56SFWKB5UCLV01C.html
画像は https://www.pinterest.jp/pin/441563938441121968/ より

 Barry Lewis著の“Kazuo Ishiguro”という評伝の中には、ヒロシマは原爆の悲劇と同義語で、エノラ・ゲイは広く知られているが、長崎に原爆を投下した爆撃機の名前はどれほど世界に知られているだろうかと書かれている。ヒロシマは原爆文学の中に描かれているが、ナガサキは原爆文学の描写の中にあまりない。

 イシグロ氏は小説に長崎を描くことで、母親の記憶を保存したかったのかもしれない。確かに私たち日本人は長崎の被爆のことを、最初の被爆都市の広島に比べると日ごろ語ることが少ないのかもしれない。  現代パレスチナを代表する詩人マフムード・ダルウィーシュは、長崎原爆投下の日である2008年8月9日、心臓疾患のために亡くなった。

2015年10月
ヨルダン川西岸ラマラ(ラマッラー)ダルウィーシュ博物館で

 ダルウィーシュは、「迫り来る大地」でパレスチナ人の抑圧された想いと抵抗、平和への願いを次のように表している。 「地の果ての次は、私達はどこへ行けばよいのだろう? 空の果ての次は、鳥達はどこへ飛べばよいのだろう?」 「私達はここで死ぬ、最後に残されたこの道で。 ここで、ここでこそ、私達の血はオリーブの木を根付かせるだろう」 (小林和香子氏訳) https://www.ngo-jvc.net/jp/projects/palestine-report/2008/08/000304.html

 長崎の犠牲者たちの声なき声は世界の平和への想いを後押ししている。

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