現在、パレスチナのアラブ人たちが立ち退きを迫られている東エルサレム・シルワン(スィルワーン)地区は、ギリシア名を「シロアム」と言い、キリストが盲人の目が見えるようになった奇跡を起こしたところとして知られている。
こう言った。「シロアムの池に行って洗いなさい」。それで男性は行って洗い、見えるようになって戻ってきた(ヨハネ伝9章7節)
7世紀にイスラム支配が始まると、シルワンは農村として開拓され、638年にエルサレムに進出した第2代カリフのウマル・イブン・ハッターブは、エルサレムの神殿の丘(現在のイスラムの聖地「ハラム・アッシャリーフ」)の荒廃ぶりに気づき、その復興を進めていった。カリフのウマルは、ユダヤ人のエルサレムへの帰還を認めたが、ユダヤ人がエルサレムに戻るのはローマ帝国によって追放されてから実に5世紀ぶりのことだった。キリストが奇跡を起こしたシルワンの池は、イスラムの伝承でも神聖なものとされている。

エルサレムのイスラムの聖地に近い
https://www.middleeasteye.net/news/israel-palestine-silwan-explained-history-religion-exploited-displaced?fbclid=IwAR3DjlOm4wvGchtZZPyfx1sD1ZBiYEONUjtUJBrVDAG2cCcg7f5j0J2Cnq4
ウマイヤ朝の第5代カリフ、アブドゥル・マリク・イブン・マルワーンはハラム・アッシャリーフに688年から691年にかけて「岩のドーム」を建設した。イスラム初期のウマイヤ朝、アッバース朝ともに、エルサレムでユダヤ人、クリスチャンに対して寛容な支配を行った。1099年に十字軍がエルサレムに侵攻すると、ムスリム、ユダヤ人をエルサレムから追放し、十字軍支配は1187年まで続いたが、エルサレムはイスラムの武将で、アイユーブ朝の創始者であるサラディンによって奪還された。その後、1229年から39年、また1240年から44年にかけてキリスト教支配があったものの、その後はオスマン帝国が1918年に第一次世界大戦に敗れるまでムスリム支配が続いた。十字軍によって駆逐されたユダヤ人はムスリム支配が再開された13世紀半ばからエルサレムに戻ってきた。イスラムの側は、エルサレムにユダヤ人を居住することを歴史上再三認めたが、現在はその真逆のように、イスラエルがアラブ人を排除するようになった。
1931年のイギリスの委任統治時代の人口統計だとシルワンの人口は2、968人で、ムスリムが2、553人、124人がユダヤ人、91人がクリスチャンだった。イスラエルの極右入植者たちは現在、自分たちのナショナリズム意識をくすぐるために、このシルワンを「ダビデの町」として考古学パークにする構想をもち、ユダヤ人とムスリムの人口比を逆転させ、先住のパレスチナ人たちを立ち退かせる計画だ。
ハンナ・アーレントは、シオニストがパレスチナという土地に固執することは誤りであり、シオニストはパレスチナという狭い土地を、自分たちのものではないにもかかわらず、自律的な政治生活を送ることができる場所と信じ、またシオニズムはマイノリティーやまた国籍の問題の解決を均質的な国民によって構成される国家建設を考える時代錯誤的なナショナリズムに求めていると考えた。アーレントの予測は、イスラエルではパレスチナ人というマイノリティーの問題の解決を、ネタニヤフ政権がイスラエルをユダヤ人の国家であると規定したり、またシルワンでの動きのように、国家が均質な国民をもつように、マイノリティーを排除したりしてしまうことに見られるようになった。
アルジェリア独立戦争のイデオローグで、医師でもあったフランツ・ファノン(1925~61年)は、『地に呪われた者(The Wretched of the Earth)』(みすず書房、1969年)で、シオニストとナチスは、共通の利益、すなわちユダヤ人たちをヨーロッパからパレスチナに移住させるという目的で協力していたと語っている。ナチズムもシオニズムも、民族浄化の考えをもち、また迫害された人々は自らを抑圧した者たちの姿勢を自ずと身につける傾向をもつが、それはシルワンなどにおけるイスラエルの民族浄化政策に表れている。
アイキャッチ画像はシェイク・ジャッラからシルワンまでのマラソンでイスラエルの立ち退き命令に抗議するパレスチナの若者たち
https://www.middleeasteye.net/news/israel-palestine-silwan-explained-history-religion-exploited-displaced?fbclid=IwAR3DjlOm4wvGchtZZPyfx1sD1ZBiYEONUjtUJBrVDAG2cCcg7f5j0J2Cnq4
コメント