エルサレムは、メッカ、メディナに次ぐイスラム第三の聖域で、最初のキブラ(礼拝の方向)で、その後メッカに変更された。イスラムの預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」の末に「昇天(ミウラージュ)」したところと解釈されている。
638年に第二代カリフのウマル・イブン・ハッターブがエルサレムに入城すると、ユダヤ教の聖地であった「神殿の丘」は完全に破壊され、荒廃している姿を目の当たりにした。692年までにムスリムたちが集えるアル・アクサー・モスクを建立し、またウマイヤ朝(661~750年)第5代カリフのアブドゥル・マリク・イブン・マルワーンは、688年から91年にかけて預言者ムハンマドが昇天したところに「岩のドーム」を建立した。他方で、ウマイヤ朝の関心はその首都であったダマスカスの整備に注がれたために、エルサレムは十字軍がエルサレムの奪還を目指すまであまり発展することはなかった。

ザクロ
http://www.jerusalemshots.com/Jerusalem_en23-11332.html
エルサレムには聖墳墓教会などキリスト教の聖地が数多くあり、またローマ帝国によって135年に追放されたユダヤ人たちもムスリムによってエルサレムへの帰還が認められ、その人口はムスリムよりも多かったと見られている。
1099年7月に十字軍がエルサレムを攻撃すると、ムスリムとユダヤ人はともに十字軍と戦い、4万人とも、あるいは7万人とも見積られるムスリムとユダヤ人が虐殺された。十字軍はエルサレムを占領すると、岩のドームはキリスト教会に、またアル・アクサー・モスクは、テンプル騎士団の本部とされ、またムスリムとユダヤ人はエルサレムから追放された。しかし、1187年にサラディン(サラーフッディーン:1138~93年)がエルサレムを奪還すると、これらの施設をイスラムの宗教施設に戻し、あらゆる宗教活動を許容し、またユダヤ人の帰還を認めた。
サラディンはエルサレムを支配するようになったが、十字軍で敵対してきたクリスチャンたちを寛容に扱い、またユダヤ人コミュニティは保護を受け、スペインのコルドバ出身のユダヤ人哲学者、医学者のモーシェ・ベン=マイモーン(1135~1204年)は、サラディンとその息子の侍医となった。サラディンは、エジプト、シリア、イエメンなどを支配し、アイユーブ朝(1169~1260年)を創設したが、その支配下でもエジプトのクリスチャンのコプト教徒などを寛容に扱い続け、コプト教会の活動はアイユーブ朝で盛んとなり、コプト教徒たちにはアイユーブ朝の官吏として仕える者たちもいた。

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エルサレムの安寧が急速に崩れるのは、19世紀にオスマン帝国の権威が低下し、ヨーロッパの領事館、宗教使節、また考古学チームなどが街に溢れるようになってからだ。また、エルサレムでは貧しかったユダヤ人たちもヨーロッパのロスチャイルド家などの支援を得て、ムスリムと影響力を競うようになり、1900年までにユダヤ人人口は35,000人とムスリム、クリスチャンの1万人を上回るようになった。

ナタリー・ポートマン
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米国のトランプ前政権はエルサレムをイスラエルの首都と認定し、米大使館をエルサレムに移転したが、現在ではエルサレムを取り囲むようにユダヤ人入植地が築かれている。イスラエルの人権団体「ベツェレム( B’Tselem)」は2021年1月12日にイスラエルを「アパルトヘイト国家」と断定した。
アイキャッチ画像はエルサレム
十字架と岩のドーム
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