中央アジアを踏査し、ロシアとの交渉を見据えた明治の外交官

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 ウクライナに侵攻したり、シリアに軍を駐留させたりするロシアの姿勢はかつてのロシア帝国主義の進出のように、政治的影響力をもち、かつ経済的利権を獲得できる地理的範囲をできる限り維持しようとする地政学的な発想があるように見える。


 明治時代に中央アジアを踏査した西徳二郎は、1847年に薩摩藩士の家に生まれた。藩校造士館で武道や和漢洋の学問を身につけ、薩英戦争(1863年)や戊辰戦争(1868~69年)に従軍した。


 1870年にペテルブルグ大学に留学し、法政学を専攻しながら、ロシアの国情を調査するようになった。1876年にパリで外交官生活を開始し、1878年にペテルブルグ在勤に転じ、そこで臨時代理公使となる。その間、美術、音楽、舞踏、馬術などに親しみ(ちなみに彼の子には1937年のロスアンゼルス・オリンピックの馬術で金メダルを獲得した西竹一がいる)、社交界でも活躍した。

ペテルブルグで
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 西は、1880年にタシケント、サマルカンド、ブハラ、アルマトゥイなど中央アジア各地を訪問し、現地の事情を調査した。ブハラ・アミール国では、統治者であるアミール・ムザッファルに謁見し、馬1頭と衣類3着を与えられた。西はアミール国の要職がペルシャ人たちによって占められていることを報告している。「ペルシャ人はウズベクよりも開けかつ怜悧なるをもって、この地方において諸業に従事し生計を営むは、その本国においてするよりも易し」と書き記した。西はブハラでペルシャ(イラン)系宰相のムハンマディ・ビーと交流し、馬具を贈呈され、馬1頭を買えるほどの11ルーブル紙幣を与えられ、そのことへの礼状をペテルブルグに帰還後にムハンマディ・ビーに送った。西は、現在でもある中央アジアにおける良好な対日感情の端緒をつくった人物ともいえるかもしれない。

ペテルブルグ
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 19世紀半ば以降、ロシアはブハラ・アミール国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国が鼎立する中央アジア南部への軍事的進出を強め、1868年にブハラ・アミール国はロシアの従属国となり、サマルカンドとその周辺をロシアに割譲した。1873年にヒヴァ・ハン国もロシアの保護国となり、コーカンド・ハン国は1876年にロシアによって征服され、ロシア領となった。ブハラ・アミール国も1920年に赤軍が介入したブハラ革命によって打倒されている。

ナスティア・クサキナ
ロシアのモデル
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 日露戦争での日本の勝利は、ロシアの進出によって苦しめられた中央アジアでも支持され、称賛されたが、ロシアの保護国であったブハラ・アミール国では公然とそれが口に出されることはなかった。
 西は、1898年に日露戦争について予測し、「日本がロシアの海軍を壊滅すれば、ロシアは中国東北部での兵站や軍事力の維持が困難になり、満州経営も不可能になるだろう。ロシアに勝利した後は、ロシアと協議して東方問題を解決するための努力を行うべきだ」と語っている。

ウズベキスタン
ブハラ
https://upload.wikimedia.org/…/Kalon-Ensemble_Buchara.jpg


 クリミア半島併合、シリア問題で国際的に孤立するロシアと交渉する日本に明治の人は教訓を与えているのかもしれない。
アイキャッチ画像は西徳二郎
http://www.ndl.go.jp/portrait/JPEG_R/610-181/s0150r.jpg

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