中国の緑化に取り組んだ日本の植樹部隊

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 12月8日は、日本が真珠湾に奇襲攻撃し、太平洋戦争に突入した日だったが、日本軍はそれ以前に1937年から中国との戦争を行っていた。

 中国における日本軍の振る舞いは歴史の暗部として語られることが多い。食料など補給ができない日本軍は「現地調達」しか選択肢がなく、心ない将兵たちは略奪やレイプなど、人倫に反する行為で中国の人々から反感をもたれていった。

映画「兵隊やくざ」より https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/k180316775

 また、731部隊のように、細菌戦の研究に関わり生体実験の結果、3、000人も犠牲になったこともあった。しかし、中国大陸での残虐な行為があったものの、本来日本人はヒューマニスティックな感情をもっていると信じたいのは多くの日本人の感情だろう。

 戦争中の中国では、植樹に尽くした日本の軍人もいた。吉松喜三大佐(1915~1985)は機動歩兵第三連隊を率いて、山西省の太原や安北を転戦していたが、「緑の木こそ人の心を安らかにする」と考えて戦闘を行った地で植林を続けていった。アジア太平洋戦争の目的を「大東亜共栄圏」の創設を目的として、「興亜」(アジアを発展させる)がスローガンであっただけに、中国の荒涼と乾ききった大地を緑に変えることは日本軍の理念にもかなうものだった。

植樹を行う吉松連隊
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/nagoshi/nikkan_696.htm

 植樹の苗木は実に400万本とも推定され、歴史家の半藤一利氏によれば、植樹を休んだ日は一日もなかった。包頭(ほうとう)の町に駐屯した時には公園をつくり、子供たちには動物園までこしらえた。中国の黄色く、乾いた大地に緑の植林を行い、ポプラや桜並木を造営したことは戦場の中で日本の将兵だけでなく、中国の住民たちにもやわらかな新鮮な感情を与えたという。植樹は兵士たちの心を和ませ、また中国の住民にも喜ばれるという「一石二鳥の名案」だったと吉松連隊に所属していた古川文吉氏は回想している。(古川文吉「『興亜』植樹部隊」)

O_06_293_1.pdf (heiwakinen.go.jp)

 古川氏によれば、第一大隊は50万本の植樹を達成して、「興亜植樹の森」記念の石碑を建てた。苗は挿し木によるものを主として、兵舎の庭などに挿し木の畑をつくって毎朝晩水を与え、移植を行っていったという。包頭では「興亜植樹公園」をつくり、日本の桜の苗木1万本とともに、植樹を進め、模擬富士山をつくり、池をこしらえて、魚を放って日本軍の兵士と現地の人々が共に釣りを楽しんだ。

中国のポプラ並木
新疆ウイグル自治区ホータン
https://alphalpha.exblog.jp/10680954/

 吉松連隊の連隊歌は隊員から募集されてつくられたが、下のようなものであり、他の軍歌とともに歌われた。

  雪に嵐に打ち勝ちて

    四方にひろがる深緑

      西風いかにすさぶとも

        われに平和の木陰あり

戦後、国民党政府軍の劉峙(りゅうじ)上将や毛沢東からも感謝状が吉松連隊長に贈られた。

http://blog.livedoor.jp/ussyassya/archives/2016-08-26.html など

 吉松喜三氏の発想は、戦争中のこととはいえ、砂漠の緑化という日本と中国には共通の課題があることをあらためて教え、また中国の人々のことを気遣い、戦時中に中国市民との交流を求めたヒューマンな日本の軍人もいたことを示している。吉松氏は緑地を増やすことは社会の安定に役立つという発想の先駆者でもあった。その考えは気候変動に直面する現在の国際社会にも模範を示している。

アイキャッチ画像はウイグル人女優ディルラバ・ディルムラット 

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