中国のウイグル人弾圧など人権侵害に抗議して北京オリンピックに政府関係者を送らない外交的ボイコットが相次いでいる。日本にとっては馴染みがあまりないウイグル人など中国のイスラムだが、戦前、ウイグル人など中国のイスラム教徒の境遇に深く同情した日本の軍人がいた。
日露戦争に勝利すると、日本の関心は満州からさらに中国の西に向かっていった。陸軍きっての中国通といわれた日野強(つとむ)少佐は、新疆を目指したが、1907年12月に蘭州から粛州の間を通過する。ここは1862年から75年に回民(イスラム教徒)の乱が起きたところだ。日野が尋ねたところ、イスラム教徒の村民たちが漢人に追われ、村落は荒れ果ててしまって廃屋が放置されている。

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それでも現地で住み続ける回民の様子を見て日野は次のように語った。
今日回民が平穏無事の状態は、はたして真の平穏無事なるか。予はおおいに疑い無きを得ざるなり・・・。独り憾む、漢人は回民を侮辱すること特にはなはだしく、彼らを劣等人種視して待遇することきわめて酷なり。いわんや彼らは肥沃の地より負い去られ、現にひとしく荒涼たる山間の瘦地に棲息せり。いやしくも一縷の性霊、その体中を通ずるものあらん限りは、いかんぞ機を見てこれを頂門に酬いざるべき。回民の状況、実に憐れむべきを察するとともに、衷心怏怏たるの情また知るにあまりあり。ここにおいてかのその表面平穏の状態は、なんぞかはからん他日怒涛の回瀾(回民の反乱)を起すの兆たるをえざればのみ。
日野少佐は、このように、漢民族の進出によって故地を追われたイスラム教徒たちの惨状を目の当たりにして、その不吉な将来についても予見していた。現在、漢人たち移住によって宗教的・文化的アイデンティティを奪われそうになっている新疆ウイグル自治区のウイグル人たちの運命を語っているかのようである。

日本が新疆に関心を抱いたのはロシアがこの地域を勢力範囲におけば、いずれ蒙古や満州にも同様な意図をもちかねないという懸念からだった。日野少佐の新疆踏査もそうした日本の危惧に応ずるものであった。
その後、日中戦争が始まる1930年代、日本の関心は新疆にますます向いていくことになる。当時の日本は、新疆を重視するために日本人女性とウイグル人との通婚も方針としていた。鈴木住子著『チャードルの女』(日本週報社、1959年9月)は、発行当時、日本のイスラム地域研究の草分け的存在で、イスラム学の碩学である前嶋信次・慶應義塾大学教授(当時)が紹介を書くなど話題になった本だが、知られることがあまりなかった日本の新疆政策の実相を伝えている。

著者は、日本軍部の対回教徒(ウィグル人)工作に応じてウイグル人男性と結婚し、3人の子供を産んだ。敗戦後、家族とともに、中国奥地に移り住んでいったものの、夫とは離婚し、日本のスパイという理由で国民党に逮捕され、子供たちとも行き別れてしまう。その後は共産党の刑務所にも入り、その思想教育を受けたが釈放されて帰国した。戦前の軍部の対回教徒工作に関わったと女性という点でも稀有なことで、まさに歴史に翻弄された波乱万丈の人生を表している。
アイキャッチ画像はウイグル人女優グル・ナザル

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