911と言えば、2001年のアメリカ同時多発テロを思い起こす人が多いだろうが、南米チリの1973年9月11日は、民主的に選出されたアジェンデ政権がアメリカCIAによって画策されたクーデターで打倒された日だ。クーデターの中心人物だったピノチェト将軍は17年間統治を行い、チリではその統治下で3、200人の人々が殺害されるか、行方不明となった。ピノチェト政権時代下では、拷問は日常茶飯事となり、28、000人が拷問による取り調べを受けたとされる。

「世界貿易センタービルのテロ事件による死者数はおよそ3000人で、確かに大変多くの人々が命を落とした。しかし、チリのクーデターでは、チリのサンチャゴ・スタジアムだけで3万人以上が虐殺された。これに関して何の式典も行われず、涙も流されず、どのような国際的な機関も団体も、この犠牲者を悼んでいない」(ケン・ローチ監督〔イギリスの映画監督〕)
両親がピノチェト政権によって殺害され、1974年にチリからイスラエルに移住したリリー・トラウブマンさんは、チリの911のクーデターにイスラエル政府が関与したのではないかと訴え続けている。アメリカ政府はアジェンデ政権打倒のクーデターに関する文書をすでに公開したが、イスラエルはクーデターに関する19、000ページにも上る文書の公開をかたくなに拒んでいる。トラウブマンさんはユダヤ人だが、チリのユダヤ人に対する独裁政権の人権侵害にまでイスラエル政府は口をつぐんでいる。
イスラエルとチリの関係は、このピノチェト独裁時代に進み、イスラエルはチリに武器を売却し、トラウブマンさんの言葉を借りれば、人権を抑圧したチリ警察、軍の装備はすべてイスラエル製というほど、イスラエル製の武器や監視システムはチリの独裁体制を支えることになった。イスラエルが武器売却について何の政治的条件を付けないことも独裁体制にとっては都合のよいことだった。1970年代から80年代にかけてのイツハク・ラビン、メネヘム・ベギン、シモン・ペレス時代に、ピノチェト政権と良好な関係を築き、1978年にモルデチャイ・グル陸軍参謀長が、また1982年にデヴィッド・レヴィ副首相がチリを訪問してピノチェト大統領と会談を行った。(「ハアレツ」2015年11月5日)アメリカと中南米の独裁体制の緊密な関係は国際社会で孤立するイスラエルにとっては好都合で、イスラエルの兵器の性能はガザ攻撃などで実証され、それが中南米の独裁政権に移転された。

チリにも、マプチェ族という少数民族が居住していてピノチェト政権は、炭鉱水素化合物産業や石油抽出産業などの進出に伴うマプチェの人々の追放に対する不満を1984年に成立した「反テロ法」などで封じた。この法律は、イスラエルがパレスチナ人に行政拘禁を行い、起訴や裁判なしに拘留命令を更新することによく似ている。チリのマプチェの人々はあたかもイスラエルにとってのパレスチナ人のような存在になっているが、チリの国家情報局(DINA)の職員たちはイスラエル情報機関モサドの訓練を受けてきた。

イスラエルのピノチェト政権への軍事支援
https://lacovacharoja.wordpress.com/2018/05/23/la-dictadura-de-pinochet-en-chile-permanecio-por-apoyo-de-israel/?fbclid=IwAR0ok9g3j-KDMjasCjjxZ9zYQY99G3u1woU7lhM522tHFqw13IPnF7kFjZA
こうしたイスラエルとチリの安全保障上の協力は、現在のセバスティアン・ピニェラ大統領の右派政権でも継続し、2019年10月、サンチアゴの地下鉄運賃値上げを契機に、貧富の格差拡大に反発する学生たちなどの暴動が発生した。これに対してピニェラ政権は非常事態宣言で対抗したが、こうした手法がピノチェト時代の記憶と重なるという指摘もある。イスラエルの人権侵害の手法が遠く南米にも移植されているようだ。
アイキャッチ画像は「占領に正義はない」
チリ・サンチアゴで
2021年5月18日
https://www.france24.com/en/live-news/20210519-chile-s-palestinian-community-largest-outside-mideast-protests-airstrikes?fbclid=IwAR3hFdyFp0Qi9ztCAW5-RFl4AF6xz41DnmhBlOXbLsnd3ECxMZaz0ueDVL0
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