5月29日、イスラエルの極右勢力はエルサレム旧市街のムスリム地区を「預言者ムハンマドは死んだ」と連呼しながら、パレスチナ人に対して暴力をふるい、催涙スプレーで襲撃した。
エルサレムに対するイスラエルの主権は国際法の上では認められていない。1947年の国連総会決議181号でもイスラエルにエルサレム支配を付与することはなかった。
十字軍のエルサレム占領後、エルサレムには特筆するような数のユダヤ人の人口はなく、1799年にフランスのナポレオンがパレスチナに到達した時、エルサレムには3、000人のユダヤ人しかいなかった。

1948年に第一次中東戦争によって、イスラエル軍は西エルサレムを、また三大一神教の聖地であるエルサレム旧市街を含む東エルサレムはヨルダンが支配するようになった。
ネタニヤフ首相はエルサレムについてナショナリズム的な解釈を行い、エルサレムが数千年にわたってユダヤ人の都市であると主張しているが、エルサレムを築いたのは、カナン人であり、紀元前1000年頃にヘブライ王国が成立すると、第二代ダビデ王の時にその都とされた。紀元前930年頃、ヘブライ王国は南北に分裂し、パレスチナ南部のユダ地方を領域とするユダ王国は、北のイスラエル王国が滅亡後も存続したものの、紀元前587年にバビロニアによって滅ぼされた。この後、ユダヤ人がエルサレムを政治的に支配することはなかった。

紀元前539年に新バビロニアがアケメネス朝ペルシアによって滅ぼされると、ユダヤ人のエルサレムへの帰還がアケメネス朝のキュロス2世によって認められ、紀元前515年にエルサレムはユダヤ人によって再建され、第二神殿も建立された。その後、エルサレムはアレクサンドロス帝国、セレウコス朝シリアの支配を受け、紀元前37年にはヘロデ大王によってヘロデ朝が創始され、ローマの支配下におかれた。
66年に始まったユダヤ戦争では、ユダヤ人たちはローマに抵抗したものの、70年にエルサレムは陥落し、第二神殿はローマによって破壊された。132年から136年にユダヤ人のバル・コクバの反乱が鎮圧されると、ローマはユダヤ人をエルサレムから追放した。
614年にササン朝ペルシアがエルサレムを占領すると、ササン朝はユダヤ人がエルサレムで宗教活動を行うことを許した。630年から636年までローマ支配が復活したものの、636年から637年にかけて、新興のイスラムの信仰をもつアラブのオマル・ビン・アル・ハッターブがエルサレムにおけるムスリム支配を確立した。1099年から1187年の十字軍支配が確立されると、エルサレムのユダヤ人たちは虐殺されるか、避難民としてエルサレムから逃れていった。エルサレムがムスリムのサラーフッディーン(サラディン)によって1187年10月に解放されると、ユダヤ人の帰還と彼らの宗教活動が認められた。第一次世界大戦の1917年12月にイギリスのアレンビー将軍がエルサレムに入城するまでエルサレムはイスラム支配の下に置かれたが、ユダヤ人たちはそこで生活し、信仰を維持することを許されていた。エルサレムが歴史的に不断にユダヤ人の都市であったわけではまったくなく、エルサレムから放逐されたユダヤ人たちを帰還させたのは、イランであり、ムスリムであったことを、イスラエルの極右は知るべきだ。
アイキャッチ画像はエルサレム旧市街でパレスチナ人女性に暴力をふるうイスラエルの極右派

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