大きな政治変動の後には急進主義の嵐が吹き荒れるのは歴史が教えるところだが、フランス革命後の国王の処刑や、ジャコバン派の恐怖政治や独裁制に幻滅したイギリスの詩人たちがイランやアラブの詩作に影響されたことはあまり知られていない。
アフガン全土を支配したタリバンが女性たちをどう扱うかがメディアの焦点になっている。米軍など欧米諸国の軍隊がアフガニスタンに20年間駐留したが、その間もアフガニスタンでは女性の地位が上昇したわけではまったくなかった。アフガニスタンの中央統計局のデータによれば、アフガニスタンの女性の84%は非識字で、高等教育を受けることができたのは2%に過ぎない。米国が20年間の駐留で女性の地位が向上したと主張すれば、それはまったく真実ではないことになる。

アフガニスタン・アメリカン大学の卒業式で
2019年5月
https://www.middleeastmonitor.com/20210820-what-can-the-taliban-offer-the-women-of-afghanistan/?fbclid=IwAR1Cmrh9bDy05Lsur2LVJvKTuQOAdy7qXdAqMbXl3Px45U-iuz_xdxOhCJE
イスラムの主流の考えでは女子教育を禁じていない。イスラムのハディース(預言者ムハンマドの言行を記録したもの)には「男子であれ、女子であれ、すべてのムスリムには知識を探求する義務がある」という教えがある。
アフガニスタンが1919年にイギリスから独立を回復すると、アマヌッラー国王(在位1919~1929年)は世俗的な教育改革を推進し、女子教育の拡大に道を開いた。特にザーヒル・シャー(在位1933~1973年)の40年間の統治時代に女子の教育機会は拡大し、1970年代になると、カブール大学の学生総数1万人の6割が女子学生となった。さらに、1979年に始まったソ連の占領時代に女性の社会的進出は進み、アフガニスタンの大学では女性も教職に就くほどになった。
アフガニスタンで女子教育を否定するような傾向が生まれるのは1980年代にソ連軍に抵抗したムジャヒディンたちがパキスタンや、サウジアラビアなど周辺のイスラム諸国の保守的なイスラムの解釈の影響を受けてからだ。1992年に共産党政権が崩壊すると、元ムジャヒディンの軍閥たちは女性の役割を限定していき、1996年に始まるタリバン時代になると、女子教育はいっそう制限され、女子のわずか3%が基本的教育を受けるという有様だった。カブールを制圧したタリバンにもアフガニスタンで女子の教育機会の拡大を図るとともに女子への暴力を減らすことが求められているが、女性の地位について現在のタリバン指導部がどれほどの理解や自覚があるだろうか?
フランス革命後の急進主義を目の当たりにしたイギリスの詩人たちは、その心の癒しを東方の詩作に求めた。当時のイギリスではイランのハーフェズ(1315~1390年)の詩やニザーミー(1141~1209年)の『ライラとマジュヌーン』などが英訳されていた。そうした中東イスラム世界の詩作がイギリスのロマン主義の詩人たち、ジョージ・ゴードン・バイロン(1788~1824年)、ウィリアム・ワーズワース(1770~1850年)、ジョン・キーツ(1795~1821年)などに影響を与えた。バイロンは、その祖先が十字軍の騎士としてパレスチナで活動していたことを誇っていた。
(SAMAR ATTAR, The British Romantic Poets and Their Arabic-Islamic Sources)

https://www.viator.com/ja-JP/tours/Windermere/Ten-Lakes-Spectacular-to-Borrowdale-Buttermere-and-Beyond/d22565-3395TEN?fbclid=IwAR3Tpct5kRLQZ3aa32gjAn_gOklLFMcYdEivz8utk9hEINUOI_Vh5__espw
今のアフガニスタンに必要なのは次のルーミーの詩に表現されるような寛容と共存の精神だろう。
「おいで、おいで」
あなたが放浪者、崇拝者、学問の恋人
誰であろうとかまわない。
私たちのキャラバンは絶望のキャラバンではない
たとえあなたが自分の誓いを
千回破ったとしても
おいで、
おいで、おいで、それでももっとおいで

ルーミーの詩
https://plaza.rakuten.co.jp/vijay/17000/
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