愛と寛容を説く中庸の宗教 イスラムは本来中庸の宗教

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Translation / 翻訳

 仏教用語において「中道」とは「仏教の実践についての基本的な考えで、対立または矛盾しあう両極端の立場を離れ、両極端のどれにも偏らない中正な立場を貫くこと。」(日本大百科全書(ニッポニカ)「中道(仏教)」の解説)とある。仏教では宗派が異なってもこの「中道」の教えを説く。いまの日本では中道よりも「極端」の動静が気になる。安倍元首相は自分の考えに合わない人々を「反日」と形容し、極右的雑誌が書店では平積みされている。

 仏教と同様に、イスラムでも下のように中庸の道を説いている。他宗教を攻撃し、また少数宗派に暴力をふるうのはイスラム本来の教えとは明らかに異なる。

「アッラーはこう仰せられました。『ゆえにあなたが命じられたように、確立せよ 。そして、あなたと共に悔悟した者も。また、度を越してはならない。本当にかれは、あなた方の行うこと全てをご覧になられている。』(クルアーン11章112節)」

「宗教において過激であってはならない。というのも、あなた方以前の者たちを滅ぼしたのは、宗教における過激さだったのだから。」(イブン・マージャ『預言者の言行の書』3029)

トルコの女優エズゲ・テレル
https://damadam.pk/content/37193446/g/

 またイスラムのスーフィズム(日本ではイスラム神秘主義などと訳される)の根幹にある精神は中庸と寛容(愛)と、仏教の教えにもひじょうによく似ていて通底するものが大いにある。世界の平和を力によってではなく、人々が心の中に神の愛を感じ、また自我を否定することによって平和を築こうとするのがスーフィズムである。

 イスラム神秘主義の詩人ルーミー(1207~73年)ルーミーの作品には宗教の枠を超えた普遍精神や、他宗教に対する理解や寛容の心が貫かれている。イスラム思想史研究の竹下政孝氏は、これらはモーゼやイエスを預言者として認めることはもちろんのこと、他の各民族にも預言者が送られたと考え、これら多くの預言者の教えは、ムハンマドのもたらした教えと同じであると説くイスラムの原理に最も忠実なものと述べている。

 被造物の間の差異は外的な形に由来する。人が内なる意味を理解したとき、そこには平和がある。おお、存在の精髄よ!イスラム教徒、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒の間に差異が生ずるようになったのは、観点の違いのためである。―井筒俊彦訳『ルーミー語録』

 以下は愛と寛容の中庸を説くスーフィー(イスラム神秘主義者)たちの言葉である。


神の友の印は、彼が持つ三つの性質である。大海のような寛大さ、太陽のような思いやり、大地のような謙虚さ。 (バスターミー、875年没)


あなたの人間関係において、もしあなたがかりに横柄な人物に出会ったとしたら、理解と寛容を示しなさい。そしてもしあなたに害を与える人に出会ったら、寛大さで応えなさい・・・いつでも平和と調和の余地を残しておきなさい。(スラミー、1021年 没)
(ルーミーとスーフィーの言葉は、リアナ・トルファシュ(前筑波大学教授、筑波大学非常勤講師)「キリスト教とイスラーム間の宗教間対話 ――霊的道の役割――」より)

スーフィの踊り
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