
『教養人の東洋史 下 15世紀から現代迄』(社会思想社、1966年)に三木亘氏が書いた「トーゴーは元気か」という節がある。そこには下のように書かれてある。 「第二次世界大戦後のトルコやイランを旅した日本人で、未知の民衆から歓待された経験を持つ人は多い。そのあげく『アドミラル・トーゴーは元気か』とたずねられてめんくらった人もいる。日露戦争における日本の勝利がトルコ、イランばかりでなくアジア・アフリカの人びとに与えた印象は、それほどあざやかなものであった。かれらのほとんどはこの事件によってはじめて、日本なる国が世界に存在することを知った。(中略)

http://blog.livedoor.jp/tmatsu…/archives/cat_50027799.html
1905年当時のアジア・アフリカに対する『無敵のヨーロッパという神話』の呪縛力はそれほど強く、イギリスとならぶロシア帝国主義にたいする憎悪はそれほど深いものであった。19世紀中のかずかずの抵抗や叛乱はすべて鎮圧され、ふみにじられて、深い挫折感や無力感、絶望またそこから発する奴隷根性や頽廃までが、ひろくアジア・アフリカを蔽っていた。未知の『有色人種の国』日本の勝利の報道はこのぶあつい氷を砕き、エジプトでも至るところの村々で説教僧(ハテイーブ)やコーラン暗誦者(ハーフィズ)が、異教徒(カーフィル)の破綻が間近に迫っていることを説いた。」
つまり自らを苦しめるヨーロッパがつくった秩序に挑戦し、世界に変革をもたらした日本に対する敬意ともいうべき眼差しがアジアやアフリカで拡がり、「インドの独立を求める運動の成長は、対馬海戦の日にはじまったといってもよいかもしれません」(K.M.パニッカル『インドの歴史』日本語版への序文)とも評価された。

しかし、日本はその後、欧米の帝国主義的な流儀を踏襲して、アジア太平洋戦争での破綻を招いた。特に近年の日本外交は、1905年のアジアやアフリカの民族運動に勇気や希望を与えた気概とか姿勢とは真逆のほうに歩んでいる気がする。イラク戦争への無批判の支持、国際法に違反して占領地に入植地を拡大し、無辜の市民を殺りくしたイスラエルとの防衛協力、そのイスラエルを支える米国に軍事的に同調する姿勢など、特にアジアやアフリカに広がる中東イスラム世界の人々の挫折感を深める主体の側に加担している。

洋泉社MOOK『イスラームと日本人』(2015年7月)
「東方からまた何という太陽が昇ってくるのだろう。 眠っていた人間は誰もがその場から跳ね起きる。 文明の夜明けが日本から拡がったとき、 この昇る太陽で全世界が明るく照らし出された。」 とイランの詩人ホセイン・アリー・タージェル・シーラーズイーに称賛された日本の「輝き」をとり戻してほしいと思うのだが・・・。
アイキャッチ画像は
日本トルコ合作映画 『海難1890』出演キャスト・忽那汐里
http://www.toei.co.jp/release/movie/1205793_979.html
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