米国・バイデン政権が「民主主義サミット」を開催しているが、しかし米国はCIAを使って民主的な手続きで選出されたイランのモサッデグ政権を崩壊に導いたことがある。アメリカが「民主主義の盟主」を自任するならば、過去の過ちと向き合い、それへの自省が必要である。でなければ、米国が説く「民主主義」は国際社会に向けて説得力をもたない。

イランが第二次世界大戦後の経済的困難を克服するために、1951年にイギリスが操業していた石油施設を国有化すると、イギリスはイラン石油を国際市場から排除した。石油国有化とは、イギリスがイランでもっていた石油の採掘・精製施設をイランのものとするものだった。イギリスがこのイランの措置に憤ったことは言うまでもない。石油の国有化によってイランは経済的に豊かになるという見込みとは異なって、深刻な経済的苦境に陥った。
油田地帯では石油タンクが満杯となる一方で、石油の積み出し港ではタンカーの姿がまばらとなり、生産された石油がだぶつくようになった。それゆえ、この時期、イランから石油を購入する国や企業は、イラン人にとってはまさに「救世主」とも感ぜられることになった。
その当時、日本は、サンフランシスコ講和条約を締結したばかりで、ようやく主権国家としての機能をとり戻したばかりだった。エネルギーの確保は、日本の経済復興に不可欠な条件で、また、第二次世界大戦の経験によって、石炭に代わって石油がエネルギーの主流となることが明らかだった。
1953年4月10日、出光石油のタンカー、日章丸はイランのアバダン港に到着した。この日章丸のアバダン入港は、世界に大きな衝撃が駆け抜けたことは間違いない。

https://twitter.com/history_jp_5963/status/1189150404682096641?lang=bg
イラン側がこの日章丸の原油買いつけを歓迎したことはいうまでもない。4月13日には、イラン国営石油会社の関係者などによって日章丸でその買いつけを祝うセレモニーが行われた。イランでは、新聞も出光によるイラン石油の輸入を新聞が大きなスペースで報じた。他方、日章丸事件に対する日本国内の反応は、これを歓迎するムードの方が強かった。日本の新聞には、この日章丸事件に関して、これがイランと日本の独立の気概を表すものだという称賛の投書が寄せられもした。
イランのモハンマド・モサッデグ首相は、出光のタンカーがイランのアバダン港に入ると、出光のイラン駐在所長の佐藤又男氏を招き、「日本人の偉大さはつねにイラン人の敬服の的です。その勇猛果敢な精神に感嘆しています。不幸にして今次の大戦には敗戦しましたが、いつの日か再び立ち上がる日のあることを確信している。お互いに東洋人として手を取り合っていきたい。日本がイランの石油を買う決心をされたことは感謝に堪えない。日本はイランの救世主であると思っている。ぜひこのことを日本に伝えて、われわれイラン国民の真意を汲んでほしい。」と述べた。(水木楊『出光佐三 反骨の言魂(ことだま): 日本人としての誇りを貫いた男の生涯』)

1951年9月27日
https://abcnews.go.com/International/wireStory/cables-us-falsely-british-queen-backed-1953-iran-71217353
しかし、経済的困難に陥っていたイランでは反モサッデグのデモがあったり、また米国が嫌う共産党の台頭があったりした。米国はモサッデグ首相の「不安定な民主主義」よりも「安定した独裁体制」を好むようになり、CIAはイギリスのMI6とともに、1953年8月19日にクーデターでモサッデグ政権を打倒して国王独裁制への道を開いた。こうした米国のイラン政治への介入は、1979年に反米的な王政打倒の革命とイラン・イスラム共和国の成立をもたらした。
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