世界的なファッション・デザイナーの森英恵さんは戦争中に青春時代を送り、「空襲の中で生と死のぎりぎりのところで生きてきたことが私の原動力」とよく語っていた。
東京女子大学在籍中、「風と共に去りぬ」を読んでロマンチックなものにあこがれるようになり、美しいものを求めるようになっていった。やはり同大学の学生時代、勤労動員で陸軍の第一工廠(現在東京北区)で働いていた。軍の工場は空爆の標的であったが、街が破壊され、人々が犠牲になる殺伐とした戦争の中で「美しいデザインのものをつくりたい」と思うようになり、それがデザイナーになる動機となった。先日紹介した茨木のり子さんの詩「わたしが一番きれいだったとき」の題材となった軍国主義の時代で、女性たちはおしゃれなど許されなかった。

https://www.yomiuri.co.jp/pluralphoto/20211220-OYT8I50095/
森英恵さんには戦争の記憶が後にもついて回ることになった。ベトナム戦争時代、米国の富裕層に華やかなドレスを作ることに違和感を覚えたという。現役引退を決めたのはイラク戦争が始まったことが契機だった。ファッションは平和の時代のみに存在するというのがその考えだった。生きる、死ぬ、の時代にそんな余裕がないと考えていた。

https://wpjc.h.kyoto-u.ac.jp/woman/386/
東京女子大学の第2代学長の安井てつ(1870~1945)は、太平洋戦争が始まる直前に文部省から大学として米国人やカナダ人との接触を断つように要求されたが、学校に恩がある人々との関係を断つことができないと、応じることがなかった。また英語専攻部の廃部も要求されたが、それにも応じることがなく、戦時中も同専攻部は存続した。軍国主義とは対極にあるような東京女子大学の教育方針も森英恵さんの後の創作活動に影響を及ぼしたのかもしれない。
森さんの少し先輩の東京女子大学の卒業生に瀬戸内寂聴さん(1922~2021年)がいるが、寂聴さんは「いい戦争はない。絶対にない。聖戦とかね。平時に人を殺したら死刑になるのに、戦争でたくさん殺せば勲章をもらったりする。おかしくないですか。矛盾があるんです。戦争には。」と言い続けた。(東京新聞2021年11月11日)安井てつや瀬戸内寂聴の反骨精神は、戊辰戦争で敗れ賊藩となった盛岡藩出身の初代学長・新渡戸稲造から継承したのかもしれない。新渡戸稲造は「軍閥が国を亡ぼす」「上海事変は正当防衛ではない」と言い切った。

東京女子大学とは2002年7月にアフガニスタン・カブールで「アフガニスタンの女性支援」プロジェクトで訪問していた教員たちと会う機会があった。タリバン政権時代に限定されていたアフガニスタンの女性の社会進出を後押ししようという目的で、私も東京女子大学に招かれてアフガニスタンやイスラムについて話をしたことがあった。アフガニスタンでは、一昨年タリバンが再び政権を取ったが、女子教育の制限など、国際社会から非難を浴びるようになっている。
タリバンの女性に関する解釈はアフガニスタンの地方社会の保守的なものだが、戦乱が続いたアフガニスタンの若い女性たちも美しくありたいという願望をもっているに違いない。アフガニスタンにも森英恵さんのように、美しいものをつくる女性が現れる時代が来ることを望んでいる。
アイキャッチ画像は「ひよしや」を新宿に開店したころの森英恵さん(展覧会の写真より抜粋)
https://www.wwdjapan.com/articles/1068109
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